通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 6 写真の流行とその規制 写真の要塞地帯法違反 |
写真の要塞地帯法違反 P941−P944 実際に要塞地帯法違反で問題になった事件を新聞記事で整理したのが表2−208である。明治期では、函館市街全景の写真が問題となり明治38(1905)年裁判が開かれている。同年8月22日付「函館新聞」によると、「会所町十五番地写真屋田本研造(七十四)は、去る三十六年八月中当要塞司令部の許可を得て港内の風景を撮影して販売せしが、昨年七月中恵比須町六番地菊池清(三十二)は更に此の写真を買受けて銅版摺りに模写して販売したるに、該風景中要塞地帯内の箇所が撮影しありとて告発され、昨日地方廷に公判開きたる(後略)」とある。これは明治37年日露戦争開戦で、同年2月10日施行された「防禦海面令」に触れるというものであった。明治期には写真家も少なかったこともあり、違反は少なかった。 大正に入ると全国的にカメラを所持する人々が増加し、違反者も増えるが、殆どが函館が要塞地帯と知らずに撮影した観光客や外国人であった。大正期では違反した場合は実際にどのような処分を受けたかというと、大正5年の場合、桟橋より函館山を撮影し検事局に廻され略式裁判で罰金10円、写真機(120円)を没収されている(同年2月11日付「函毎」)。外国人は許されるケースが多かったようだ。大正7年11月第1次世界大戦も終わりを告げ、要塞司令部は、同9年春に函館山の蝦夷館山を市民に解放する(同年5月4日付「函毎」)など、取り締まりはゆるやかとなり、桟橋や七重浜の海岸線の撮影も許されていたほどであった(同12年5月7日付「函日」)。この緩やかな傾向は、日中戦争のはじまる昭和12年7月頃まで続いた。開戦の翌8月には1か月で4件の違反と突然急増している。さすがに一方的に検挙するだけではどうかと考えたのか、函館憲兵分隊、函館警察署と水上警察署は連絡船からの無許可撮影防止のために、船内に「注意書」を掲示するほか、航行中に注意のアナウンスを行うことにした(同12年9月11日付「函新」)。 違反件数の発表は少ないが、昭和7年10月2日函館憲兵分隊から発表された7月から9月までの3か月間の要塞関係犯罪は10件あり、そのうち無許可撮影が5件、模写4件、要塞地帯侵入1件となっている(同日付「函毎」)。また同13年のアマチュアカメラマンの要塞地帯法違反は、16件であった(同14年10月25日付「函新」)。 違反処分されたなかには、同情を呼ぶものも見受けられる。出航または入港した連絡船の中で、函館山をバックに記念写真を撮影して検挙された例は多い。また蓬莱町の路上で、少女が友人を撮影してるところを取り押さえられたり(同12年8月15日付「函日」)、本町の日本清酒の小路で子供の写真を撮影していて捕まったり(同15年3月11日付「函新」)、会社の慰安会会場で撮影していたところを、許可証不所持で取り調べられる(同16年8月21日付「函新」)などはその例であろう。
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