通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

1 市民生活の変容とその背景

1 生活の「モダーン」化

食生活

住生活

交通機関

シンボル「銀座通り」

俸給生活者の登場

シンボル「銀座通り」   P696−P697


夜の銀座通り
 モダーン函館のシンボルのひとつ、銀座通り(高田屋通り、恵比須町通りの名もある。十字街の東隣りの位置で、カフェーなどの並ぶ歓楽街であった)。昭和8年8月14日−八幡社例祭の前夜祭−午後7時〜8時の1時間の間、某ビルから眺めた鳥瞰図は、次のとおりであった。往来人数1337人(男741人、女596人)、15歳〜25、6歳位の人が901人で、全体の70パーセント近く、銀座通りが青年男女の愛する街だったことが知られる。服装は、和服924、洋服(アッパッパ、学生服、労働服)413、このうち女性の洋服姿は51で大半は少女。男の洋服は、学生服51、背広106、作業服92、ワイシャツ・スポーツシャツにズボン192、ネクタイをむすんだもの48、蝶ネクタイ11、帽子をかぶったもの283、うち女性は17、男性はストローハット132、ハンチング44、学生帽41、パナマ27。和服の女性のうち割烹前掛481、短い前掛31、役所帰りらしい袴をはいた人7。携帯品では、ステッキ44、杖6、パラソル9、団扇31、煙草をすいながらの人121、うち女性は1、眼鏡は男性366、女性57、腕時計は不正確だが男性30、女性32。履物は、下駄、男性402、女性274、草履男性133、女性215、地下足袋男性21、女性1、靴の色、白103、黒96、褐色46、ハイヒール4。通過した車、自動車14、トラック2、自転車122 (リヤカーひくもの21、リヤカーのみ8)、荷馬車3、オート三輪3、荷車2(昭和8年9月9日付「函日」)。この頃、カフェー100軒以上、女給1000人以上(前出『近代函館』)といわれたこの街をさまようなかで作詞された流行歌『酒は涙か、溜息か』は、古賀政男のメロディーにのって、昭和6年の大ヒット曲となった。作詞者の高橋掬太郎は、当時、函館日日新聞の記者、詩、小説などを書いており、この歌詞をコロンビアに投稿したところ、採用になったのだという。彼は、のち上京して、コロンビアレコード専属作詞家となり、このほかにも「啼くな小鳩よ」「並木の雨」など多くのヒット曲を生みだした。宝来町に「酒は涙か…」の歌詞を刻んだ歌碑が、昭和36年に建てられている(北海道新聞社刊『はこだて歴史散歩』)。
 函館風景・末広町…この辺は、「三井、三菱、日銀、一銀等を擁しているビジネスセンター」なので、スマートなサラリーマン、年々洗練される若い女性事務員の洋装・着物の着こなし、お化粧…「マーブルのやうに美しい瓜ざね温顔の女性」が道銀前の停留場で降りた。「大方物産に勤めているのであらう」、傍らの安田銀行には、日本水産の新株払込取扱中の立看板が出ている(『日魯雑報』第48号、昭和12年10月21日)。
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