通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第5節 躍進する北洋漁業と基地の発展

1 ロシア革命と露領漁業

混乱期の漁区競売

自治的出漁=自衛出漁

混乱期の漁区競売   P575−P576

 大正6(1917)年3月に勃発したロシア革命は、極東地方にも波及して、この後約10年間にわたって混乱が続き、比較的順調に発展してきた露領漁業においても、動揺と変則的な状態が続いた。大正7年の漁区の競売は、ウラジオストクの沿海州ゼムストボ政権によって実施されたが、翌8年の漁区の競売は、オムスクのコルチャーク政権の下で行われた。
 明治40年の日露漁業協約によれば、協約の有効期間は12年間で、大正8年は協約更新の年に当たっていた。しかし、当時ロシア極東は革命動乱の渦中にあり、交渉当事者となる正当な政権が存在していなかったので、日本政府は、極東で事実上政権を握っていたオムスク政府と交渉した。その結果、「改正協定ノ実施ニ至ルマテ現行協約及附属議定書並漁業権ニ関スル一切ノ取極ハ当然其効力ヲ持続スヘキモノト了解スル」(外務省編『日本外交文書』大正8年 第1冊)との確認を得て、同年の出漁が行なわれた。
 大正9年の漁区競売は、コルチャーク政権の崩壊に伴ない、ウラジオストクのゼムストボ臨時政権の下で行われた。だが革命勃発後の極東情勢はますます紛糾し、極東各地にパルチザンが蜂起して、日本人漁場も被害を受けるようになった。オホーツク方面においても、パルチザンによって日本人漁場26か所、缶詰工場3か所が襲撃され、物品が略奪され、建物が焼き払われた(『露領漁業沿革史』第3篇下)。なかでも、多数の日本人居留民らが死亡した尼港(ニコラエフスク)事件の被害は甚大で、この報復として、日本軍は同年7月北樺太を占領した。大正14年5月の撤兵に至るまで北樺太漁場も薩哈嗹軍政部の管理下に置かれた。
 大正9年、日本政府はウラジオストクの臨時政府と交渉を持ち、先にオムスク政権と結んだ漁業協約の効力持続に関する取り決めと5年満期漁区の取り扱いについて協議したが合意が得られなかった。
 この交渉において、臨時政府側は、「一九〇七年(明治四十年)日露漁業協約ハ一九二〇年(大正九年)ニ限リ其効力ヲ認ムルモ其以後ニ於テハ漁業協約ノ改訂セラレザル限リ(漁区競売以外の)其他ノ事項ニ付テハ露国側ニテ任意ニ決定」するとして、協約の有効期間が1920年までであるという見解を示した。
 これに対し日本政府は、効力持続の取り決めは、明治40年の協約そのものの延長を意味するものであり、「オムスク政府トノ間ニ締結シタル取極ハ正当政府ノ樹立ニ至ル迄ノ過渡的且変則ノ取極ニシテ一般条約締結ノ手続ニ依ルコトヲ得ザリシハ露国正当政府ノ存在セザルニ出デタル已ムヲ得ザル措置ナリ…然ルニモ拘ハラズ臨時政府ガ之ヲ理由トシテ前記客年ノ取極ヲ否認セントスルハ帝国臣民ノ漁業権ノ享有ヲ許サザラントスルノ悪意ニ出デタルモノト」と反論した。
 また、5年満期漁区について、臨時政府側が、大正9年度の「競落漁区」に限り日本側の要求を容れ、大正10年以後の5年満期漁区を、新規開設漁区として期限を1年間とすることは「効力持続の取極」に反するとして撤回を求めた(大正9年6月17日「内田外務省大臣ヨリ在浦潮菊地総領事宛文書」『日本外交文書』大正9年)。
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