通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

2 道南交通網の発展

長輪線開通

国鉄道南鉄道・軌道敷設

道南のバスと輸入車

民間飛行場誘致運動

民間飛行場誘致運動   P560−P561

 昭和前期に展開された民間飛行場誘致運動に、函館を中核とする上磯、銭亀沢、湯川など近傍各町村の連携プレーがみられる。飛行場誘致問題は、昭和7年8月10日の「函館新聞」に始めて現れる。早くもこの頃具体化した東京−仙台−青森−札幌間の民間定期旅客機の路線に、函館を加えてもらいたいという要望である。函館市長、商工会議所会頭(函館商業会議所は昭和3年1月函館商工会議所となる)が当局たる逓信省へ陳情したのである。当時は、函館市の柏野に小型飛行機の発着所があった。
 次に、昭和7年8月1日の「函館新聞」の記事によると、市、会議所は、東京−旭川の長距離飛行の発着所について検討したようで、その結果、柏野は現在は支障がないにしても、要塞もあり、地域も狭小なので、本格的飛行場は柏野(函館市の五稜郭近辺)よりも広い所、上磯と函館の中間、七重浜方面に数万坪の地積を選定すべく研究中とのことであった。これを聞いた近郊各村の反応は早く、8月31日には銭亀沢村が誘致を、函館の坂本市長に陳情した。同村の志苔台の高原、宇賀浦小学校裏手の広漠たる土地を提供するという申入れである。附近に無線電信局があるから、土地条件は好いということである。大体、これが現在の函館飛行場の母型になったと考えられる。
 同年、青森に飛行場新設確定が伝えるや、運動は、より一層真剣になった。山村茂別村長は同月29日坂本市長に矢不来の村有地、6万坪の原野を提供したいと陳情、湯の川村は、飛行場期成同盟会を組織し藤堂氏所有の土地その付近、合わせて15万坪を飛行場用地にあてる旨の村長談話を発表した。上磯町は、位置としては当町が絶対だとの円山町長談を公表した。
 札幌、青森両市に飛行場が設置された昭和9年8月、東京−札幌間航空路開設にからみ、再び民間飛行場設置問題が再燃した。翌10年、黒沢飛行士が来函、柏野飛行場で高等飛行の妙技を公開、1万人の観衆を酔わした(昭和10年6月17日「函新」)。
 昭和12年4月1日、札幌−東京間定期航空路が開設された。日本航空輸送会社によるもの。しかし日中戦争開始によって、民間定期航空路開設は中止となった。
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