通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

2 道南交通網の発展

長輪線開通

国鉄道南鉄道・軌道敷設

道南のバスと輸入車

民間飛行場誘致運動

国鉄道南鉄道・軌道敷設   P555−P557

 本道の鉄道建設は、大正・昭和を通じ、本道内陸部に多く行われた。道南は、北海道の旧開地といわれながら、鉄道の建設は、はるかに遅れている。とくに日本海沿岸(主として桧山支庁管内)への接続が遅れた。江戸時代、北海道の三湊といわれた函館、福山(昭和15年に松前町と改称)、江差を結ぶ松前線、江差線が、全線開通したのは、松前線が昭和28年11月、江差線が昭和11年11月のことである。もっとも、上磯駅までの上磯線は、大正2年9月に完成し、木古内駅までは、昭和5年10月に竣工した。木古内以降は、江差線が、木古内−湯ノ岱間が昭和10年12月、湯ノ岱−江差間が昭和11年に完工している。福山線は、もっと遅れる。昭和17年11月までに漸く渡島吉岡まで竣工しただけである。上磯線が早く完工したのは上磯に浅野セメント工場があり、その製品を函館港から搬出していたからである。函館区では、明治42年、有志が鉄道院に布設を請願していた。軽便鉄道である。松前線の請願の記事が、大正11年1月30日の「函館新聞」に出ている。また、大正15年9月2日の「函館新聞」によると、松前鉄道の敷設に関係町村長打そろって井上鉄道大臣に陳情している。国鉄が、なかなか、鉄道布設に乗り出さないこともあって、函館市内の民間資金で、鉄道布設の企てがみられる。函館電気軌道株式会社の設立がそれで、昭和2年には上磯軌道布設請願(亀田村万年橋−上磯町富川まで)を行っている(国立公文書館蔵「昭和二年地方鉄道及軌道六 敷設請願却下巻三六」)。この軌道敷設は、結局のところ昭和6年7月に函館水電に認可された。
 大野電鉄は、大正13年、資本金60万円で創立(大野−函館間、延長10マイル)昭和3年認可。大沼電鉄(大沼−鹿部間、全長11マイル)は、昭和4年1月開業(函館−大沼間は国鉄線利用、大沼で接続)。
 昭和5年6月15日「函館新聞」は、「我が道南渡島の鉄道網愈々成る、函館港の後方地帯確立せむ」という大みだしで「我が函館は後方地帯に乏しいと久しきにわたり唱えられていた処である、全くの処、道南渡島半島は鉄道に恵まれていなかった…。そこで鉄道敷設の促進運動が勃興し、まず多年の宿題であった長輪線が全通し、次いで瀬棚線、木古内線、江差線、福山線等が一時に具体化して…」と報じている。瀬棚線は函館本線国縫駅から分岐瀬棚港に至るもので、昭和7年11月に全通した。
 また、私設鉄道として、大沼電鉄の外、森駅より分岐して砂原町に至る渡島海岸鉄道があると伝えている。大野、函館間の電鉄は、大函電鉄と呼ばれたが、うまく行かず、未開業に終った。渡島海岸鉄道は昭和20年1月、大沼電鉄は、昭和20年6月廃止された。
 ほかに、五稜郭駅−亀田郡戸井村小安に至る釜谷鉄道が、昭和12年工事に着手した。戸井線という軍用線である。昭和19年竣工予定であったが、未完のまま、戦後、中止された。約30キロメートル。戸井に要塞を築いて、それに軍用資材、兵員を輸送するのが目的であった。
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