通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業

7 大正・昭和前期函館陸上交通

1 函館駅の大改築

函館駅大改築の理由−ターミナル

函館駅構内大改造

昭和13年1月の焼失

昭和13年1月の焼失   P551−P553


大正3年竣工の函館駅
 昭和9年3月21日、住吉町から出火した火事は、烈風にあおられ、2万2667軒を焼き、死者2166人、重軽傷者9485人を出す大惨事となったが、函館駅、桟橋は、幸いにも類焼を免れた。函館駅一帯には5000人の避難民が殺到、駅員は4分の1の71人が自家が火事(家族の死者10人)にもかかわらず、救助活動に必死の活動をした(『先駆−函館駅80年の歩み−』)。皮肉にも、それから3年後の昭和13年1月18日、風速1.5メートルという静かな夜中、午前0時38分、駅自身の湯呑所から失火、全焼した。この失火で建物延べ1002坪を焼失した。損害は2万4275円、階上の運輸、保線両事務所も焼けた。その他の損害6万7000円。
 大正3年12月に竣工したこの函館駅は、駅本屋だけで1092平方メートル、運輸、保線両事務所その他を併せ2096平方メートルを算する大きな建物であったが、前述の通り、大正、昭和前期を特徴づける鉄道の大発展、函館区(市)の急速な充実と、道南交通網の整備を背負う中核の建物としては、早くも不十分となり、老朽化していた。大火ののち、昭和10年の始めから函館駅の改築が、国鉄のみならず、函館市政の大問題となっていた。函館商工会議所は昭和10年、地方産業発展のために、函館駅改造を議会に請願した(昭和10年1月26日「函毎」)。
 札幌鉄道局も同趣旨で、この年、函館駅及び桟橋駅総合改築案(予算50万円)を作成、明年度を期して予算化するよう、本省に廻付することになっていた(昭和10年5月19日「函毎」)。坂本函館市長を始め、函館市の議会、会議所代表による函館駅改築期成会が、昭和10年10月31日創立された。目的は不燃質の、函館の窓口にふさわしい大規模の駅舎の建設であった。この期成会には、近郊町村有志も参加の予定であった。改築プランは、この年の5月、札幌鉄道局、地元函館運輸事務所との折衝の結果、鉄筋コンクリート総2階、一部3階建て、工費41万円で、同12年7月1日着工、同17年6月3日竣工と予定されていたのである。
 その直前の火事であった。火の手は見る間にひろがり、老朽化した木造の駅本屋を忽ち焼きつくし、階上の運輸、保線事務所に延焼、当直の4名は、一物も搬出できず、階上から縄梯子で漸く脱出した。従って重要書類は悉く焼失した。電話交換設備も焼失した。そのため、奥地は勿論、中間各駅との通信連絡も途絶した。小荷物発送係室、待合室、売店も焼失、僅かに、改札室、小荷物到着室が焼けずに残された。午前3時半、漸く鎮火した。
 貨物本部、同ホームは類焼を免れたので、貨物関係の損害は全く無く、また、構内の線路も無事だったため、列車は、平常通り運行した(昭和13年1月19日「函日」)。国鉄職員の死傷者は無かったが、3人の消防手が負傷した。桟橋駅も無事だったため、以来、桟橋駅で、業務が継続された。
 新函館駅の着工は、折から、日中戦争の最中のため遅れて、同16年着工、地鎮祭を7月21日に行い、同17年12月20日、本駅舎が竣工した。附属到着小荷物室は同18年11月完成した。鉄骨鉄筋コンクリート一部木造、外部総タイル張りで、階上2階共1220坪、焼失函館駅250坪の5倍の規模となった。工事費は40万8000円。
 同17年12月、それまで分離していた札幌鉄道局函館管理部(運輸、保線事務所の合併した機構)も2階に移転した。これが現在の駅舎である。
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