通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港

4 国鉄青函連絡船、比羅夫丸の登場

T字型桟橋

鉄道院請負業者丸辰組

第1期拓計と国鉄

巨大組織と身分制

国鉄職員の給与

連絡船付帯施設の充実

連絡船付帯施設の充実   P528−P529

 既にそれ自身が機械文明を象徴する鉄道の中でも、青函連絡船およびその港湾施設の発達は、この時期、実にめざましい。それは、青函連絡船自身のみならず、付帯施設の充実拡大にも見られる。とくに貨物部門に著しい。まず大正2年、区内若松町から出火、駅を含む1532戸焼失のための新函館駅建設(大正3年12月10日新築、木屋1092平方メートル)に伴い、連絡船待合所を駅から分離し、埠頭で列車を発着させることに始まる。大正4年、艀船(国鉄所有、肉体労働は請負業労働者が行う)のための第1船入澗建設、小口貨物用倉庫新築、石炭陸上高架線の新設、大正6年、貨物上屋、煉瓦造りの海発着貨物倉庫新築、大正10年の、第2、第3船入澗の竣工がそれである。大正15年、それまで函館駅構内にあった工場が五稜郭へ移設された。
表2−100 明治未〜大正年間青函間輸送量の推移
年次
旅客
貨物

明治41
42
43
44
大正1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
千人
157
175
223
284
306
314
288
296
426
494
691
705
701
591
619
670
701
752
千トン
8
20
72
105
130
153
154
191
348
361
386
407
455
429
418
406
465
497
『青函連絡船五十年史』、『青函連絡船史』より
注)1.旅客は千人未満切捨て
貨物は千トン未満切捨て
2.上り、下り合計数である。
 この附属施設の充実に示される通り、大正期には重大な機能変化が見られる。本来、旅客中心であった青函連絡船が貨物兼用船となったことである。このことは、明治43年の日本郵船の三港定期廃止と国鉄青函航路独占の必然的結果である。日本郵船に代り航路および鉄道便を独占した国鉄青函連絡船は、日本郵船の担当した貨物運送をも引き継がなければならなかったからである。本来、旅客船であった比羅夫丸、田村丸両船では、到底、貨物をさばききれなかった。貨物は、明治41年の8503トンから、大正元年13万663トンと、たった4年間に15倍にもなっている(表2−100)。
 大正3年〜同7年の第1次世界大戦の影響が、決定打であった。何故なら、優秀な大型船は、外国航路へ配船され、内航が手薄となり、そのため、貨物の鉄道便への切換えが起ったからである。大正年間、本来の旅客増も著しいが(大正7年、大正元年の2倍余)、貨物は、大正7年3万8千トン余と、大正2年の2.5倍に達している。第1次世界大戦終了後も、貨物量は、停滞こそすれ、減少しなかった(表2−100)。国鉄は、殺到する貨物需要に傭船で対応した。明治43年のうめか香丸(3022トン)に始まり、会下山丸、第二阪鶴丸、万成源丸、生玉丸、弘済丸、鮫竜丸、第八大運丸、第三共栄丸、甲辰丸、第一二小野丸、伏木丸、敦賀丸、山陽丸、伊吹丸と大正14年までに実に16隻の傭船を行っている。このうち敦賀丸だけが客船である(『青函連絡船史』)。
 青函連絡船本来の使命である旅客運送需要も増大したので、国鉄は、ついに、大正13年5月大型貨車航送船翔鳳丸型4隻を就航させるに至った。このため、港湾設備が大きく変ったのである。
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