通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港

4 国鉄青函連絡船、比羅夫丸の登場

T字型桟橋

鉄道院請負業者丸辰組

第1期拓計と国鉄

巨大組織と身分制

国鉄職員の給与

連絡船付帯施設の充実

鉄道院請負業者丸辰組   P522−P523


丸辰組(佐藤一成氏蔵)
 貨物は、大正14年10月14日竣工の鉄筋コンクリート岸壁が供用されたのち、始めて貨車航送という形で接岸荷役された。それまでは艀で船と沿岸をつなぎ、沖仲仕、陸仲仕が運送力を担っていた。この点は、旧港湾と全く同じである。担当したのは丸辰組である。『先駆−函館駅80年の歩み−』では貨物の艀荷役は、明治43年3月10日、丸辰組に請負わせたことに始まると記されている。また大正7年4月1日、連絡中継貨物積卸作業中、陸上艀船内の作業を海陸作業会社の請負に変更したとある。
 同じ大正7年8月10日の「函館新聞」には丸辰組がその労働者に「官署に勤める者と同様に恩給制度を設ける」ことを報じている。この丸辰組という名が翌大正8年7月20日の「函館日日新聞」にも出ている。生計費暴騰に苦しむ人夫側が月収65円に値上を要求、ストを起し60円で妥結したとのニュースである、この請負制度は、大正14年8月、新造の貨車航送船翔鳳丸型4隻で、接岸荷役を行うに至って廃止された。丸辰組は、「函館日日新聞」の報ずるところでは、陸人夫20余人、沖人夫60余人で大森稲荷の近くに人夫集合所があり、人夫取締というのが全体を監督していた。
 だからT字型桟橋の時期、貨物の多くはすべて請負に出して艀荷役をしていたことになる。明治43年12月15日、予算15万円で急ぎ供用されたT字型桟橋は、当時大桟橋と呼称された。
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