通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港

3 港湾運送業と労働者

港湾運送業者

港湾労働者

港湾労働者   P518−P520


艀荷役の状況(『写真帳函館』大正15年刊)
 船舶と沿岸との間、無動力の艀船に積んで貨物を運送するのが港湾運送の基本である。この船舶内の貨物を艀に上げ下しする沖仲仕、艀と沿岸との間の貨物の上げ下し(水切り)から倉庫まで貨物を肩にかつぐ、一輪車で運ぶ過程を受持つ陸(おか)仲仕、倉庫内労働を受持つ庫(くら)人夫が分業体制を組むのである。これらの労働者は、すべて日給で、常備と臨時日雇に分かれる。
 北洋漁業を基本とする大正・昭和前期、必然的に臨時日雇のウエートが高くなる。庫人夫を除く常備の人数は、大正11年末950人、12年850人(各年『函館商業会議所年報』)と報告されていたが、昭和4年の税関調べでは、沖仲仕692人、陸仲仕794人、計1486名と増大している。外に臨時人夫(出面(でめん))2000人という(『函館港湾費調査書』)。大正時代には、この外に鉄道連絡船受持ちの沖仲仕がいた(丸辰組、60〜80人位)。以上、名前のあがった労力請負業者は、みな有力な業者で、すべて番屋という労働者詰所を持っていた。
 北洋漁業中心の大正後期、昭和前期になると、臨時人夫の陸人夫として、女子労働者が大量に雇用されている。昭和前期の最盛期に当る昭和12年の「函館新聞」は、沖仲仕組合の賃金3割増要求を報じているが(5月14日)、この時の函館運送労力請負業組合の抱える労働力を3000名としている。
表2−94 明治45年区内諸人夫の日給
              単位:銭
区分
最高
普通
最低
艀人夫
沖仲仕人夫
日雇人夫
   男・賄あり
   女・賄あり
80
110

75
35
70
90

60
25
55
70

45
20
明治45年3月21日付「函日」より
 賃金は、明治45年3月21日の「函館日日新聞」に、日給が報じられている(表2−94)。艀人夫は普通日給70銭だから、1か月31日フル稼働しても月収21円である。日雇はこれよりやや低く、女人夫は、格段に低くなっている。米価が暴騰した大正7年、港湾の常備人夫、中でも、割合、安定雇用の郵船艀人夫260人が、3割の賃金値上を要求してストを起したことを報じている(5月2日)。賃金額が記されていない。ほぼ同じ条件の鉄道請負の丸辰組の罷業を、大正8年7月19日の「函館新聞」が報じているが、要求1か月65円、結局、660円支給で解決したとなっている。明治45年からみると、ほぼ3倍。
 大正12年12月15日の「函館新聞」は、仲仕1か月の平均収入約40円で、女は半分、例年と変りはないと報じている。日給については、仕事の多い時は1日7、8円にもなるが、暮れには1日3円、仕事の少い時は1日80銭くらい、女はその半分という。この状態がその後長く続いたが、日中戦争開始後、賃金が高騰した。月収40円は最低生活費と目される。昭和期、労力請負業を代表する古川組では、11月から3月の霜枯時に月収40円を保証する制度を創った(昭和13年12月13日「函日」)。
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