通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港

2 港湾施設の整備の停滞

第1期拓計の問題

第2期拓計と工業港建設計画

第2期拓計と工業港建設計画   P514−P517

 佐藤孝三郎は、大正13年着任時、港湾設備の立ちおくれを痛感したと回想する。「函館は天然の好地形に却って逆に人工的設備の発達を遅延せしむるの結果を生じて将来或いは小樽港の下風に立つならんとの悲観説すらも行わる、小樽はもとより天然の利を持たぬので、遠大なる防波堤を計画して当時既に半成の域にあり…」(『高岳自叙伝』)。
 当時、港湾建設計画は、内務省港湾調査会の決定を必要とした事情もあり、佐藤孝三郎は、まず大正14年6月、市に港湾調査会(会長小熊幸一郎、副会長渡辺孝平)を設立し、次の4項を諮問した。
 1、漁業資源地としての港湾設置並に設備の地点
 2、沿海貿易小型船に対する設備地点、方法
 3、工業区域の地位
 4、上屋倉庫の補充坪数並にその方法
 諮問に当り佐藤市長は、次のように述べた。「現在の港湾設備は、驚くべき欠陥を有し、何等の設備なしというも過言ではない。ただ鉄道桟橋だけが連絡設備を有しているのみ、一般商港として何等認むるものはない。……函館は……将来工業の発展を期さねばならぬ。この発展を図る能わざるは、港湾設備不備のためである」(大正14年6月11日「函日」)。この諮問が、臨海工業地帯の造成に基づく工業港を、都市計画に基いて建設する趣旨であることは、明らかである(都市計画の始め)。
 港湾調査会は、大正15年3月、満場一致で工業港建設計画を決定、函館市会また満場一致でこれを可決、直ちに北海道庁長官に出願した。道庁は5月、内務大臣に上げ、同年10月、内務大臣浜口雄幸を会長とする臨時函館港調査会が設立された。これに佐藤孝三郎市長と函館商業会議所会頭平出喜三郎が委員として嘱託されている。
 この調査会が工業港案を採用し、その骨子が、昭和2年から始まる道庁の第2期拓殖計画に組み込まれた。
 この内務省原案は、国鉄若松埠頭の北方の隣接地に3基の埠頭を建設、工業原材料、燃料とくに石炭および製品を取扱うもの。更にその背後の亀田地区を工業地帯と想定している。もっとも、第2期拓計で3基が2基に減らされた(現実にできたのは戦後、1基だけ)。これらの埠頭は年間800万トンの貨物を扱うと予想している。この大函館港建設は、人口50万人の大函館市を想定し、工業を中心とする産業都市をめざす都市計画の下に行うとするものであった(昭和3年『函館市是』)。この第2期拓計について『新北海道史』 (第8巻・史料2)は「函館、小樽、室蘭、釧路、留萌、稚内、網走及び根室の各港は商港とし……函館、小樽、室蘭の諸港は、……適当な規模に於て海陸連絡施設を施す等の拡張工事を施行することとした」と説明している。事実、小樽港は、これにより昭和12年第1号埠頭を完成、第2号埠頭も80%竣工して、日中戦争に入っている。現実には、昭和12年に始まる日中戦争のために、函館、室蘭両港の埠頭は、完功せず、すべて戦後に持ち越された。それでも室蘭は、昭和21年、埠頭建設計画の13%が竣工しているが、函館港はゼロである(前掲『新北海道史』)。
 第2期拓計で建設された函館港の施設は、道費(内務省負担)に関しては防波堤だけである。すなわち大正7年完工の延長918メートル島堤を更に667メートル延長し、港内364メートルを隔てて、更に島堤1091メートルを建設(北防波堤)したのである。これによって、ほぼ651万平方メートルの港面を被覆した。1坪3.3平方メートルとすれば、約197万坪になる。つまり第1期拓計時の被覆面積91万坪、西北風に対しては54万坪の約3倍、実質4倍に達する被覆面積となった。北端は、港内546メートルの副港内を隔てて、第3防波堤に接続する。ほぼ現在の函館港の規模である。もっとも、この北防波堤、昭和22年度、第2期拓計打切りの時点で37%しかできていない。100%完成したのは、西防波堤だけである(斉藤虎之助『函館海運史』)。ただ、この西防波堤の完成と北防波堤の一部完成は、昭和15年着工、同19年1月供用を開始した国鉄有川埠頭(貨車専用埠頭)の防護には有効であった。
 道の直轄工事でない市営工事の方に見るべき成果がある。第2期拓計に合わせて海岸町の2万8600坪を埋立てて、とりあえず昭和3年の長輪線開通に備えたこと、西浜町2万4千坪を埋立て、北洋漁業の大型船を含む荷役に備えたことである。これによって旧港湾は北洋漁業基地、海岸町以北は石炭、木材等工業原燃用倉庫用地となった。
 西浜町岸壁は計110間、3千トン級汽船2隻を同時繋船することができる(水深24尺)。水深18尺岸壁は長さ百間、千トン級汽船の接岸可能、水深12尺岸壁は延長482間、5百トン未満の汽船、発動機船、艀船の接岸荷役用、昭和7年竣工の現在の西埠頭がその大型船岸壁である。
 海岸町埋立地は、貯木場1万2691面坪、貨物41万トン、貯炭場5117面坪、25万トンの木材、石炭用地が主で、その外は、鉄道用地1584面坪、税関用地1万面坪計2万394面坪の計画である。この海岸町埋立は、これに続く浅野セメントの七重浜埋立(5万坪)を誘発する(昭和10年5月18日「函日」)。
 海岸町には、昭和3年函館冷蔵会社、昭和4年重油タンクが建設されている(後述「6 倉庫業の変貌」)。

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