通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
5 大正・昭和前期の函館港

1 函館港(国鉄専用桟橋・埠頭を除く)

函館港の変貌

商港

北洋漁業

函館港の変貌   P507−P508

 明治39年3月31日、日本鉄道国有法が公布された時、函館港といえば、現在の函館駅、旧青函連絡船の若松埠頭以西の現在「西部」あるいはウォーターフロントと呼ばれている部分を指していた。昭和初期でもそうである。
 しかし、ほぼ「支那事変」と政府が呼んだ日中戦争(昭和12年以降)を画期に「函館港」の内容が変化する。それは、函館港の中に青函連絡船とその発着する若松埠頭および有川埠頭(昭和19年造成)が加わったからである。加わったのみならず、急速に青函連絡船およびその埠頭の比重が高まり、太平洋戦争以降は、函館港といえば、青函連絡船の発着港というイメージが強くなっていく。大正から昭和前期の函館港の変化は、この一点に集中する。それが第一。

旧函館港の様子(北海道写真史料保存会蔵)
 第二の変化は、旧函館港自体の変化である。決して若松埠頭に押されて衰退し、とって代られたのではない。大正時代以降、旧函館港の性格自体が変化したのであり、その変化によって旧函館港は、衰退どころか発展に次ぐ発展を記録するのである。それは、日本郵船を中核とする一般商港から露領海面、北千島海面を漁場とする北洋漁業の根拠地に変貌したことによる。小型発動機船(重油を燃料とする)の密集する港というのが、別の表現である。そのため函館港は、大型商船の必要とする機械化埠頭の建設には狭すぎ、かつ不適当な港に化した。昭和3年以降に目立つ「大函館港」建設構想、つまり大型商船(1000トン以上の汽船)が横付けする近代的埠頭は、若松埠頭から北東の海岸を埋立てて新造することになる。もっとも戦前はついにその実現は夢に終り、計画を立ててからほぼ30年後の昭和32年、現中央埠頭建設によっておくればせながら実現するのである。その時、旧函館港は「歴史的風土」のウォーターフロントに退化した。第三の特徴とは、小樽港、室蘭港、釧路港など道内港湾が北海道庁(内務省出先機関)の打出した拓殖計画(第1期、第2期)により商港、工業港として急速に整備されたことである。このことが、明治期、北海道全体をヒンターランド(背後地)としていた函館港の商港としての機能を相対的に低下させた。とくに第1期拓計(明治43年以降15か年計画)の防波堤築設における小樽港の整備が完成するに及んで、函館港は、北海道随一の先進商港の地位を脅かされていることを自覚するに至った。もっとも若松埠頭が、たとえ国鉄の専用埠頭であったにせよ、商港機能を果していることを考えると、全体としての函館港の商港としての機能は、上昇しこそすれ、決して衰えてはいない。第四は、港湾の陸上部分、臨海地区の変貌である。とくに昭和期に入って、倉庫部門が変容する。産業革命が機械化によって象徴され、それを動かす燃料、石炭と石油のストックヤードが開拓されると共に、冷蔵倉庫が創設されるのである(後述「6 倉庫業の変貌」)。第五の特徴は、北洋漁業の季節性が労働力需要の季節性となって現われ、現代の不安定就労、半失業者が堆積し、そこに労力請負業と口入屋(周旋屋)が栄えたことである。まず明治時代から受け継いだ函館港のその後を見よう。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ