通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
4 戦後不況と躍進の海運界

戦後の海運不況

近海郵船の設立

海外航路網の拡大

ウラジオストク航路と大阪商船

カムチャツカ航路

樺太航路

北千島航路

上海航路と台湾航路

函館市補助航路と近海郵船

ウラジオストク航路と大阪商船   P492−P494


ウラジオストク港
(写真画報臨時増刊第35巻『海州写真帖』明治38年)
 ロシア極東地方との海運は日露戦争以前は大家七平が逓信省命令の定期航路で結ばれていたが、明治36年に大阪商船(株)と大家とが共同出資して大家商船を設立した。明治39年に大家の出資金を大阪商船が支払って大家商船は解散した。大家商船がウラジオストク定期航路を廃止した。ことにより、関係方面では再開を目指した運動を展開した。函館の動きは資料的な制約から不明であるが、小樽は商業会議所が中心となり活発な動きをしている(明治40年4月6日付「樽新」)。その結果、大阪商船が逓信省命令航路のウラジオストク直航線とウラジオストク回航線(甲乙の2線)を継承することになった。ちなみに明治40年4月17日付け「小樽新聞」に同社の「浦塩航路開始」の広告が掲載され「敦賀浦塩線・毎週一回・敦賀発浦塩直航・使用船/開城丸」「浦塩回航甲線・毎月一回・函館小樽浦塩間往復・使用船/交通丸」「浦塩回航乙線・毎月一回・小樽浦塩七尾新潟小樽回航・使用船/交通丸」とある。明治40年に青森が開港されたこともあり、翌41年からは回航線のなかに青森を加えられた。同年にはこの定期航路を利用して函館商業学校の生徒がウラジオストクへ見学団を結成して視察旅行をしている。その時は小樽・函館・青森・小樽・ウラジオストク・七尾・小樽のコースとなっている(『浦潮商工業調査報告』)。この年には14回(延1万3916トン)の入港が確認されているが、函館税関の統計上は「日本海線」と表記されている(『函館税関貿易年報』)。
 明治45年時点では大阪商船の交通丸の函館港における代理業務を仲浜町の筑前商店海運部が担当している(『函館案内』(ロシア語版))。函館には4月から12月に1月に一航海の割合で寄港。回航線はその後時宜により寄港地に増減があったが、商況不振のために大正12年3月をもって休航となった。その事情は大正13年4月の奥羽北海道商業会議所連合会の建議に詳しい。それによればこの「日本海回航航路(函館・青森・ウラジオストク・小樽間)」は、大阪商船が年に10数回定期航路を開いていたが、大正12年にロシアの政情不安により旅客や積載貨物が激減して航路存続に困難をきたし休航となったというのである。対ロ貿易の現状はロシアの輸入税に妨げられ日本からの輸出が一時減少したが、ロシア産の肥料、雑穀、海産物は日本の必需品であり、輸入は年々増加傾向にある。しかし定期航路がなく当業者の困難は大きいので、連合会は航路の復活を要望している(大正13年5月『函館商業会議所月報』)。いずれにしてもこの回航線はウラジオストクと函館・北海道を結ぶ基幹航路であった。なお、大正13年に一時的に室蘭の栗林商船が経営したが、大正15年からは川崎汽船が定期航路を継承した。しかし対沿海州への主要拠点が小樽へと移っていったこともあり、この航路も小樽を中心として組まれ、函館は寄港地としての位置に止まった。同社による経営は昭和7年まで続いた。ちなみにウラジオストクと函館との航路は後述するロシア船による定期便も運航していた。
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