通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
4 戦後不況と躍進の海運界

戦後の海運不況

近海郵船の設立

海外航路網の拡大

ウラジオストク航路と大阪商船

カムチャツカ航路

樺太航路

北千島航路

上海航路と台湾航路

函館市補助航路と近海郵船

近海郵船の設立   P491−P492

 海運不況の余波として北海道において一大勢力を形成していた日本郵船は根本的に業務の刷新と経費節約の必要に迫られた。近海航路に関しては試験的に国内航路や北清航路などの近海の航路を分離して経営するために、大正11年4月に近海部を設け、独立した特別会計のもとに実行を試みた。近海部の設置にともない、郵船の函館支店が近海部の所属となった。分離経営は良好な成績であったために資本金1000万円で近海郵船(株)を設立することにした。日本郵船は新会社に対して汽船22隻・5万4522トン、ほかに小蒸気船3、艀船30や土地、建物等915万円を現物出資したほか現金85万円を出資し、役員を送りこんだ。函館に所在する支店の土地、建物、小蒸気船、艀等も出資され近海郵船(株)の函館支店として業務を分担することになった。ちなみに小樽支店も同様であった。こうして発足した近海郵船は12年4月1日から営業を開始した。創立に際して日本郵船から譲渡された航路として北海道関係は函館・樺太線(逓信省命令)、函館・網走・千島線(北海道庁命令)、小樽・樺太線(樺太庁命令航路)の各命令航路のほかに神戸・小樽線、神戸・釧路線、横浜・樺太線などの自由航路を経営した。同社は開業して間もない同年9月に発生した関東大震災により東京支店を失うなどの打撃を受けたが、所有船舶に被害は出さずにすんだ。
 同社は主力を北海道航路に注ぐ方針を立て、函館や小樽を基点に配船を増やし樺太・千島方面への臨時便も増発し、さらに日本海沿岸の西回り航路も復活させるなどの営業努力を重ねた。また本州との基幹航路である東回り航路(神戸・函館・小樽)は従来、自社船の配船ができず用船による運航をしたことから輸送効率が低いきらいがあった。そのために5000トンクラスの新造船を配船し、神戸発を2、5、8の日として「一旬三回月九回の完全なる定期を励行」(大正12年4月7日付「函新」)するなどの改善を行った。その後、同社は長期にわたる不況に直面したものの、近海部門に限定することで経営効率を高め、経費節約をはかり前記のような種々の改善、航路の拡張に努めた。新規航路の開拓として北海道関係では上海・根室航路の開設をあげることができる。同航路は大正15年3月13日釧路発竹島丸を第1船として開航、毎年3隻または6隻を使用する予定であったが、昭和6年満州事変勃発以来上海は排日運動の中心となり、ほとんど取引が閉塞する状態に陥ったので、翌7年ついに休航した。なお近海郵船は昭和14年に日本郵船に再統合されるまで、おおむね順調な発展をたどった。
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