通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

5 函館における銀行業の展開と金融事情

大戦前後の金融事情

支店銀行の設置

柿本銀行の設置と金貸会社の登場

本店銀行の増資と資金流出

地場銀行支店網の拡大と役員動向

大戦後の反動恐慌

百十三銀行と函館銀行の合併

金融恐慌下の函館

百十三銀行の道銀合併

金銭貸付業と漁業投資

金融界の1年

柿本銀行の設置と金貸会社の登場   P385−P386

 ここで支店銀行ではないが、特異な存在として函館の柿本銀行について述べておこう。明治40年2月に名古屋での銀行取付けに端を発して起きた銀行動揺は金融界に波乱を招いたが、これは銀行の新設に規制を加える要因となった。こうしたなか明治末年で道内において唯一設置されたのが、函館に本店を置く柿本銀行であった。同行の経営者である柿本作之助は「一六(いちろく)銀行」と称される質屋と貸金業を営業していたが、銀行業の認可を得て明治43年9月に資本金50万円をもって設立したものである。柿本はかつて銀行と質屋を兼営しようとしたが、認可を受けることができず、行政訴訟を起こしたものの敗訴した。このため質屋は個人営業として行い、銀行は担保貸しなどの一般の銀行業務を行ったが、取引者は「中産以下ノ小商工業者」(『函館ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』)で、普通銀行が担保にはとらない物件にも貸付を行った。このため金利も年1割2分から3割と非常に高利ではあったが、大正2年上半期では24万円の担保貸しをおこなっており、零細業者から歓迎された。
 日銀は柿本銀行を金貸会社と区分しているが、この種の会社として市内金貸業者が共同出資して設立された函館供融(株)(明治45年設立)や亀井供資合名会社(明治39年設立・経営者は質屋の亀井邦太郎)などをあげている。とくに後者は商業資金の融資に力をそそいだ。このほかに無盡会社として大正2年に設立された大正貯金(株)について少し触れておこう。同社は資本金7万円で役員は岡村藤治(質屋・金貸業)、及能仁三郎(同)、今井辰太郎(味噌醤油製造業)らで構成されている(同前)。4年に無盡業法が施行されると、その認可を受けて、社名を函館無盡(株)と改めた。その後資本金を20万円とし営業範囲も拡大して渡島、檜山、胆振、後志の各支庁に代理店を置いた。大正12年には末広町に新社屋を新築移転した。役員が市内の有力者であったことや、後には相馬哲平を相談役に据えるなど社会的な信用も高まり、13年時点での加入口数は6836口におよんだ(大正13年1月19日付「函日」)。函館無盡会社は道内の他の無盡会社を引き離して首位の座にあった。こうした金貸的会社が函館に多く存在したことの要因としてひとつには漁業への融資ということが考えられる。漁業という生産形態の不確かさから銀行はその融資を対象とすることをさけ、大部分は仕込金融と呼ばれる高利の個人金融あるいは類似会社に依存していた。こうしたこともあって、函館は道内の太平洋沿岸や渡島半島一帯の漁業への仕込を始め、択捉などの南千島あるいは樺太漁業や露領漁業への仕込機能も有している関係から、この種の会社の存在がありえたのである。さらにこのような漁業資金のほかに中小の商工業者への融資も大きな比重を占めていた。後述するように金貸業者の存在も、それと軌を一にする。
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