通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

2 塩鮭鱒流通の発展と函館

鮭鱒市場の再編

塩鮭鱒の内地向け出荷

塩鮭鱒流通の新たな動き

大量供給される露領産塩鱒

台湾移出

塩鱒の中国輸出

塩鱒の輸出と日魯漁業

塩鱒の輸出取引方法

日貨排斥による影響

集散市場としての函館の後退

旧来勢力の後退と新規覇者の台頭

集散市場としての函館の後退   P338−P340

 前述したように、函館は露領漁業の発展と関わって塩鮭鱒の一大海産物市場としての繁栄を遂げてきたが、一方においては北洋漁業および供給構造の変質、函館をめぐる塩鮭鱒流通の変化、4次にわたる経済不況とそれによる商況不振などのもとで、集散市場としての機能後退や塩鮭鱒業界における所謂函館商人の没落などの事態も、特に大正期中盤から昭和初期にかけて顕在化させていったのである。
 函館は露領産の供給増大と移・輸出の拡大により総体として集散力を大きく増進させてきたが、一方において集散市場としての機能後退も進んでいた。それは、函館を中継しない、あるいは函館の海産商を介在しない取引の増加として、より具体的には、(1)漁業者による東京などの消費地塩魚問屋および上海などの輸入商との直接取引の増加、(2)従来まで函館に集荷してきた根室・釧路などの海産商による消費地との直接取引の増加、(3)東京・四日市組魚市場の塩魚問屋による産地・漁業者からの直接集荷の増加などとして現出していた。また、受渡地が東京などとなるものについては函館港に入船した場合でも荷揚げを行わないでそのまま東京などに回送されていくものが多かった(前掲表2−26参照→塩鱒の輸出と日魯漁業)。
 そうした事態の契機となったのが大正9年から11年頃にかけた不況期であったことが「函館新聞」の連載記事「函館海産物市場」(大正12年1月24日から10回連載)から知ることができる。
 その連載によると、「戦時好況の反動的不況は…我海産物も販路に相場に二つ乍ら急激なる不振を招くに至った」。それに伴い「市場は又不況に陥り商家は極端なる自衛本位となり一面銀行業者も貸出を警戒して容易に資金の供給をしなかつたので金融は茲に梗塞状態を醸すに至つた、こうなると商家は一大痛棒を喫し益市場は不況を助長するのみで大正九年秋季の如きは露領漁業の切揚季に際し旺に塩鮭鱒が出廻り将に函館海産市場の繁忙季を迎へたるにも拘らず意外とする閑散に終末を告げたる如き」。
 このような事態に対し、「各地の商業家は…経費節減を積極的に考究し従来の中継取引を喜ばずして産地対消化地と云ふ直取引を行ふに至つた…之が為に従来函館に出廻り来たつた海産物は減退し函館の商権が衰退するの余儀なきに至つた、例せば根室釧路の如きは…正に直航を計画して内地と直取引を奨励し当地商人の手を経由せぬ有様となつた、尤も此直取引は獨り経済的関係のみならず交通機関も与つて力大なるものがあつた」。
 さらに「商業家の疲弊したことゝて漁業家は非常に苦境に陥り生産品は更に動かず一方資金の回収は刻々に迫り来りたるを止むを得ず急造商人と変化し積取船のまゝ、上海、大連、台湾は勿論内地方面にも旺に直取引を開始するに至つた」。しかし、これら「取引の当初は諸経費が軽減され相場も比較的安価に提供されたる事とて需要地に於て相当歓迎され而も消化は非常に好成績を占めたが、荷送の調節を誤つて殆ど継続的に輸送したので遂に供給多過となつて相場は下落するは値踏はされるはで結局総勘定に於て多大なる不結果を見るに至つた」上に、「地元たる函館原産市場の相場も低落せしめて益市場商人の不況を濃密ならしめたかの観を呈した」のであるということである。
 また、同記事では、函館の集散機能の低下は単に経済要因によるだけでなく、「函館港は港湾施設としては見るべきものなく殆ど貨物集散呑吐を司どる海陸連絡の施設は一もなく僅に公共上屋に依つて不便ながらも之を行ひつゝあるが之とて元より狭隘にして集散貨物の全部を収容するは困難である」と、その集散・中継市場としての基盤の脆弱性や、「現在に於ける消化状態を見るに東京附近と東北地方にのみ限定され居るかの観があつて夫れだけ我函館の商権は比較的狭隘なものである」と出荷機能の弱体性によるものであることを指摘している。

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