通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

2 塩鮭鱒流通の発展と函館

鮭鱒市場の再編

塩鮭鱒の内地向け出荷

塩鮭鱒流通の新たな動き

大量供給される露領産塩鱒

台湾移出

塩鱒の中国輸出

塩鱒の輸出と日魯漁業

塩鱒の輸出取引方法

日貨排斥による影響

集散市場としての函館の後退

旧来勢力の後退と新規覇者の台頭

台湾移出   P325−P329

 台湾市場が販路開拓で注目された背景には、第1に、対中国向け輸出において、台湾市場がその商権を掌握してきた函館在住華僑商人の権益の比較的及ばないところであったことが指摘される。それは、函館在住華僑商人のほとんどが浙江省寧波の出身であり、地理的に上海に近い関係から仕向地もほぼ上海に限られてきたからである。第2に、台湾島内における塩魚需要の旺盛さと塩鱒の需要喚起の可能性である。台湾では従前から対岸の中国大陸やインドシナ方面などから太刀魚・小鯛などの塩魚類が輸入されていた。しかも日本領有後はこの輸入塩魚類に対し、関税の増課と戦時税の賦課による輸入規制が実施され、日本内地品の移入が奨励されていたことも塩鱒移入にとって極めて有利に働いていた。第3に、台湾への移入塩鱒は単に島内需要に限られるだけでなく、対岸の中国市場にも中継輸出されていた。塩鱒の拠点移入港である基隆は対岸の福州・廈門・汕頭に地理的に最も近く、これらの商圏に向けて中継貿易が活発に展開されていた。そして特に中国本土における戦乱やそれに伴う日貨排斥による輸出変動に際し、中国市場へのバイパス的な輸出機能を発揮していくことになるのである。
 台湾への塩鱒輸出は、明治35年頃に神戸在住の台湾商人・隆順商店による台湾への移出に端を発し、本格的に進展してくるのは明治41年頃からであるとされるが、その契機となるのが、「明治四十一年三月、台南市の九大旭商会主古瀬大寿氏、海産物の視察に函館へ来り、同地豊川町毛利甚平商店(今の甚平氏は二代目なり)を訪問して取引を結び、神戸接続にて同年塩鱒及塩鰮の積出を見るに到りしが、これ本道台湾間の海産物取引の嚆矢なり」といわれる台湾在住の古瀬大寿による塩鮭および塩鰯の函館からの積出であった(「南支那及台湾に於ける海産物取引事情」北海道庁産業部商工課、昭和4年)。
 その後、大阪の上野久吉、函館の岩崎岩次郎が台湾との塩鱒取引を開始し、さらに翌42年9月には函館の岡本忠蔵商店が、汽船苫島丸という1500トン級の汽船を仕立てて塩鱒4000石を台湾へ直航、「斯くして台湾取引は益々殷賑を呈し、積荷又頗る増加せしを以て、明治四十三−四年頃、日本郵船会社函館支店は…横浜台湾線を函館に延長して、これ迄の接続の不便を除く、これ台湾函館定航の初めなりとす…明治四十四五年の頃より、延長航路の開始と相俟つて、取引も普及し来り、殊に函館海産界の巨商、加賀与吉商店、佐々木忠兵衛商店、森卯兵衛商店等の出動を見るに到りてより出貨も著しく増加するに到」ったのであった(同前)。
表2−21 台湾における塩鱒移入高推移
年次
数量
千斤
金額
大正1
30,096
1,818
2
25,072
1,565
3
26,862
1,592
4
25,478
1,479
5
26,754
1,724
6
27,890
2,416
14
 
2,214
昭和1
 
2,004
2
 
2,209
北海道庁「海外販路調査視察報告(其の1)」他で作成。
注)大正7〜14年までは資料なし
 これら対応のもとで台湾向けの塩鱒の移出が明治40年代に入り増加傾向をたどっていくことになり、明治44年で113万円、翌大正元年で182万円、同2年〜5年で150〜170万円、5年で242万円と200万円の大台に、さらに同14・15年・昭和2年では200〜220万円と推移している。数量では大正元年で3000万斤の大台に載せているが、各年での変動も大きいものの、大正年代ではほぼ2000万斤台の後半から3000万斤台で推移している(表2−21)。
 こうした台湾向けの塩鱒の70〜80%は函館港から積み出されており、当該移出品は函館からさらに近海郵船および北日本汽船の西廻航路によって門司へ積み出され、同地で郵船および商船の基隆神戸線に積み替えられて基隆まで廻送されていた。なお、函館から台湾への輸出促進において重要な役割を果たした郵船会社の函館台湾延長線は大正10年頃に廃止されている。
 函館における台湾側との取引について次のような記事がある。

 台湾トノ取引ハ内地ニ次キ好位ヲ占メ其需用季ハ同島ノ塩魚ノ最少時期タル九月ヨリ翌四月ノ交ニ至ルマテニシテ荷造ハ何レモ六十斤入ヲ一枚筵ニ包ミ五梱ヲ一括シテ正味三百斤入トナスナリ同島商人トノ取引ハ本品ハ時日ヲ経ルニ従ヒ変質スルヲモッテ現金売買ナレトモ電信買付ニ際シテハ内地商トノ取引ト同様ナリ只土人商人トノ取引ニハ稍々警戒ヲ加へ荷為替取組ノ場合ハ差金トシテ代価ノ二割乃至三割ヲ予メ徴スモノアリ又々買付委托ノ問屋ニ於テ徴スル手数料ハ総代金ノ二分五厘ヲ慣例トセリ
                                     (前出「函館港ニ於ケル塩鮭塩鱒ニ関スル調査」)

 このような台湾との取引においては台湾側商人によるマーケット・クレームも多く、また取引をめぐる同業者間の過当競争の問題も加わって、その対処のため大正3年に「函館台湾移出商組合」が結成されている。同組合は、最低価格による販売統制とともに違反者に対する制裁措置を行ういわば台湾向け移出海産物の販売カルテルであった。ちなみに大正3年に発覚した初代副組合長の佐々木忠兵衛商店による違反事件においては、同店に対し謝罪文の提出や理事辞任などかなり厳しい制裁措置が取られている。さらに当組合は日本郵船と諮って組合員の運賃割戻しや組合保証による船荷証券の割引なども行っており、後年には組合員の委託荷を取り扱って事実上の合同販売機関となっていくのである。組合員数は、発足時に15名であったが、その後20数名に増加している。なお、初代組合長は組合発足に際し斡旋者ともなった小熊幸一郎であった。組合は日本鮭鱒販売連盟が結成された昭和9年に解散している。なお運賃割戻しは、積荷7000円以上9%、1万円以上11%、1万5000円以上12%、2万円以上13%、2万1000円以上14%、3万円以上15%とかなり高率であった。
 台湾側の移入については、まず移入港となっていたのが基隆であり、同港は塩鱒の総移入額の93%(昭和2年)を占めていた。同港に移入された塩鱒の70%が函館を積出港とし、そこには塩鱒を介した函館との緊密な結び付きが見られる。また、基隆は台湾に移輸入される海産物の80〜90%を集散する台湾最大の海産物市場であり、島内需要に対する集散機能と対岸の中国大陸への輸出機能を兼ね備えていた(表2−22)。移入塩鱒について島内需要分と中継貿易輸出分の仕向配分(基隆以外の移入分も含む)を大正6年で見ると、数量で島内需要分の54.7%に対し中継貿易輸出分の45.3%、金額で島内需要分の55.6%に対し中継貿易輸出分の44.4%、となっている(表2−23)両者の比率は特に中継貿易輸出分の動向によって変動する傾向にあり、それはまた中国本土における塩鱒輸入の拠点となる上海の輸入動向に規定されたものでもあった。つまり、上海における塩鱒の輸入は日本の中国干渉・侵略に対する日貨排斥や内戦などによる物流混乱などで減少を余儀なくされたが、そうした事態に際し台湾からの中継輸出が増加していたからである。昭和2年5月1日の「函館日日新聞」は、昭和初頭に起きた上海事件に伴う台湾取引活況の模様を「台湾取引旺盛/対岸との取引活況に/函館移出激増す」と題して次のように伝えている。
表2−22 基隆港における塩鱒の積出港別移入額(昭和2年)
積出港
移入額
千円
構成比
函館
小樽
関門
神戸他
合計
1,434
178
410
33
2,055
69.8
8.7
20.0
1.6
100.0
北海道庁「南支那及台湾に於ける海産物取引事情」(昭和4年)より作成。
表2−23 台湾の移入塩鱒における仕向配分(大正5・6年)
実数  
数量(千斤)
金額(千円)
移入高 中継輸出高 島内消費高 移入高 中継輸出高 島内消費高
大正5
6
26,754
27,890
11,750
12,640
15,004
15,250
1,724
2,416
721
1,072
1,002
1,343
構成比   数量(%) 金額(%)
移入高 中継輸出高 島内消費高 移入高 中継輸出高 島内消費高
大正5
6
100.0
100.0
43.9
45.3
56.1
54.7
100.0
100.0
41.8
44.4
58.2
55.6
北海道庁「販路調査復命書(支那、附台湾)」(大正7年)より作成。

上海動乱の為め同地(上海−著者)より福州・廈門・汕頭方面に対し取引不能の状態にあるので台湾と同方面との間に商取引活況を呈するに至り台湾を中継地として対岸に対し露領産塩鱒の輸出旺に行はれ居る由にて従来台湾と対岸福州方面との貿易はジヤンク輸送に依る微々たるものであつたが今回は定期的に汽船を運行せしめつゝあり而して現在台湾に於ける塩鱒の在荷は一千四百俵に過ぎざる所より在荷払底を告げ居る一方塩鱒に対する買気旺盛なるに依り一両日前便船北日本定期船にて当市森卯其他大手筋が塩鱒一万六千俵を輸出した由にて昨今函館市場に於ける台湾取引は稀有の活況を呈し居るといふが上海に於ける鹽マスの在荷も約三千俵に過ぎざる由なれば今後益々需要の増進を見るだらう

 また、このような事態のもとで、基隆の海産商は従前まで上海などが商権としてきた対岸の福州・廈門・汕頭などの地方を漸次その商権に収めていったのである。
 基隆における海産商(輸移入問屋)は本島人と日本人を合わせて30名内外で、それら海産商により同業組合が組織されていた。有力な海産商としては、基隆の台湾物産、利記商行、三合和商行、陳紅亀商行、三河商行、陳源裕号、陳和合、金良興商行、三益商行、義合成公司、台北の林長益商行、台南の旭商会、高雄の利興公司などがあった。
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