通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第4節 明治末期函館の教育界
1 初等教育

就学者の増大

二部教授の実施

新教育の機運

学校行事の定着

学校の管理・運営の組織

宿直の定着

軍事と結びつく学校教育

明治期の子ども像

伸びる実質的就学率

二部教授の実施   P190−P192

 在籍児童数の増加に伴う財政負担の増大に対処する方法として採用されたのが二部教授である。二部教授というのは、教員や教室の不足などに対処するため、小学校の全部もしくは一部の児童を午前午後のように前後2部に分け、前部の教授の終了後に後部の教授を行うものである。二部教授は、ドイツの半日学校の制度を導入して成立したもので、二部教授には、全日二部教授もあるが、函館で採用されたのは半日二部教授である。
 我が国の二部教授は、明治22年の文部省令第12号「学級編制ニ関スル規則」によって、本科正教員もしくは教室の不足に応ずるための編制として採用されたものである。同33年の第3次小学校令の公布に伴う文部省令第11号「小学校令施行規則」によって、前後2部に分けて行う教授を半日小学校と呼ぶ呼称が採用され、尋常小学校に実施することとされたが、同36年の文部省令第11号による小学校令施行規則の改正によって、半日小学校は二部教授と呼ばれることになり、尋常小学校のみならず、高等小学校をも含めて適用できるようになった。こうして、二部教授は全国的な実施の段階を迎えることになるのである。同37年に勃発した日露戦争は、軍事費の確保の必要から諸経費の節減を求めることになったが、文部省は教育費節減のために、二部教授を採用するよう道庁および府県に指示した。その結果、北海道および府県の二部教授が次第にその数を増すことになる。
 北海道では、明治36年2月の道庁訓令第13号別冊「普通教育に関する注意事項」によって、二部教授の実施が奨励されている。訓令別冊はまず、北海道の普通教育について、それが幾分特別な事柄がないではないが、大体は一般の府県と同様に、法令の上に定まっているとし、また普通教育は、読んで字の如く、普通どこにでも行き渡らせるべきものであるから、高尚複雑を避けて、その施設も簡易にし、早く遍く普及させるべきであるとする。義務教育児童を入学させたいという保護者があるのに、学校が狭いからといってこれを断るのは、国家の義務を尽くさないものであるから、そんな時には、断然学校を二部教授にすべきであるとする。また財政の都合で二部教授にするのも、教育の普及の上から望ましいことであるとされている。安上がりでよいから、とにかく量を増やそうという理屈であったといえる。
 このような道庁の方針は、在籍児童の増大と、大火罹災の復旧に大きな財政負担を強いられていた函館にあっては、好都合なものであったといえる。表1−57にみられる通り、明治末期を通じて、高い比率で二部教授が実施されているのである。二部教授は、その後、火災、戦争、その他、事あるごとに実施され、函館教育界の、「慢性的ガンと目され」ていくものである(『函館市教育委員会三十年誌』)。
表1−57 公立尋常小学校二部教授実施状況
年度
学級総数
二部教授比率
二部教授学級数
備考
明治41
42
43
44
大正1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
133
154
161


174
173
181
195
213
230
246
266
276

276
295
297
306
20
56
66


36
16
32
58
86
100
147
132
134

131
80
68
90
15
36
41


21
9
18
30
40
43
60
50
49

47
27
23
29
9月
9月



4月
4月
4月
9月
9月





11月
11月

注)『函館区(市)事務報告』による。
  函館区は大正11年以降函館市となる。
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