通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
4 造船業と鉄工業

造船業と鉄工業に及ぽした経済的諸要因

明治後期の造船業と鉄工場

造船ブーム期の造船所

造船ブーム期の鉄工場

造船ブーム期の造船所   P130−P132

 大正前期の造船業の推移を表1−39に示したが、第1次大戦の影響で4年から7年にかけて生産額は急上昇している。主な造船所の営業成績を表1−40に示したが、新造船数に占める帆船の割合は約2割で、残りは汽船である。しかし、修理は約4割が帆船である。この時期は新造工事も多く、明治期の西洋型帆船の製造技術が大型の木造汽船や小型のタグボート(曳船)に生かされた時期でもある。

第三万洋丸の外板取付工事(山内一雄氏蔵)
 (株)函館造船所は毎年1割の配当をし、3年には1.5割、5年には3.5割、6年には25割の配当で、同年10万円に増資した。7年3月までに30数隻の汽船を新造、修繕し、常に100人余の、従業員を傭していた。大野造船所は下北郡川内村出身の大野由松により、大正元年に真砂町に創立された。常時14、5人の従業員を傭し、7年には692トンの木造貨物船竜徳丸を建造した。小杉造船所は新潟県出身の小杉長三郎が大正3年、真砂町に創立し、第一万洋丸、第三万洋丸(何れも350トン機帆船)、布引丸(150トン汽船)を建造した。浜岡造船所は2代目浜岡源助が創立し、20〜40トンの木造汽船の新造、修理が主であった。船矢造船所は福井県越前町出身の船矢早吉により創立された。浜谷、笠巻と共同で、大正7年には300トンの、木造貨物船大成丸、神天丸を作った。早吉は大正6年から函館造船業組合の3代目組長をつとめた。堤商会七重浜造船所は大正3年に購入した4万坪の敷地に設けられた。露領漁業で使う自家用のタグボート、漁船の新造、修繕が主である。続豊治の孫娘の女婿佐太郎(改め隆吉)は続造船所を真砂町5で開いていたが、大正6年に総棟梁として招かれ、洋型船のタグボートやランチの製造に携わった。
 宮崎造船所は港内運送業の宮崎信太郎が、7年8月に鶴岡町34に開設し、はしけの建造にあたった。いわゆる函館型はしけで70〜150トンと大きく、後には小樽港でも荷役に使われた。その他の造船業では和船の川崎船、三半船、磯舟の製造を主とし、道内や樺太の沿岸漁業、北洋漁業に販路をもっていた。
表1−39
造船ブーム期の造船業の推移
工場数
職工数
生産額

大正3
4
5
6
7

5
8
9
7
7

487
532
830
1,384
1,513

770,389
809,677
1,781,248
4,192,995
8,451,962
各年『函館区統計書」より
表1−40 大正前期の主な造船所の営業成績
造船所名
新造
修理
船数
トン数
代価(円)
船数
トン数
代価(円)
函館造船所
大正2
3
5
6
7
3
2
2
3
358
56
639
1,010
55,350
24,000
67,350
303,000
16
22
37
15
21
1,732
2,433
3,770
1,566
2,497
17,430
18,370
22,799
33,661
143,929
大野造船所
大正3
5
6
7
2
3
4
2
280
75
157
784
22,050
8,000
19,868
91,375
6
16
8
15
372
1,215
435
1,362
4,770
7,308
10,352
27,280
小杉造船所
大正6
3
779
353,526
14
1,204
16,680
船矢造船所
大正6
7
1
1
54
329
5,409
4,300

2

325

2,108
堤商会造船所
大正7
8
 
24,000
     
岩岸造船所
大正2
3
6
 
 
 
4
3
7
124
72
235
772
891
4,453
『北海道庁統計書』より
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