通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
3 主要企業の動向

函館船渠(株)

北海道セメント(株)

北海道人造肥料(株)

北海道機械網(株)

函館水電(株)

北海道機械網(株)   P117−P120

 明治30年代に区内で展開された激しい漁網の販売競争は、明治40年の大火を契機として、北海道機械網会社と岡本漁網店との合併という事能をもたらした。北海道機械網会社は開業の34年度から40年度までは、毎期販売高は増加して、8%から10%の配当を実施していたが、大火後の火災保険料支払に関するトラブルから、銀行の信用を失い、41年度から急激に経営は悪化した。明治42年10月9日付の「函館日日新聞」は、「網会社亡ぶ」と題して次のように述べている。

機械網会社は屋台骨の割に振はずして、無配に次くに無配を以てし、尚不漁の打撃を受けて遂に会社の運命を危険に瀕せしむるに至る。同社のために惜しむべきのみならず、之が影響を被むる函館実業界の迷惑や測り知るべからざらんとす

  機械網会社の常務取締役末富孝治郎は、41年に就任した商業会議所副会頭の地位をこのために辞したのである。一方、岡本康太郎はこの間の事情を次のように語っている。

末富孝治郎さんは自分の田地を売ったりして苦心さんたん挽回につとめたのですが、ついにサジを投げたらしく私を訪れて「どうしてもやり切れない。せめて機械網会社の体面を保ってくれるなら合併してもらっていい」とのことでした。これに対して私もいろいろ考えましたが、この際機械と工員をもっている機械網会社と一緒になった方が今後の商売上非常にいいとの結論に達しましたので、末富さんの申し出をうけ新たに函館製網合資会社をつくることにしたのです。明治四十四年四月のことでした。
                                               (『函館財界五十年』岡本康太郎)


函館製網船具(株)(『函館市制実施記念写真帳』)
  以上のように合併という語が用いられているが、先に述べた北海道セメント会社や北海道人造肥料会社の合併とは全く異なる内容であった。というのは、44年に設立した函館製網合資会社(資本金10万円)に末富孝治郎は無限責任社員として参加しているが、他方で機械網会社も次のような形態で存続していた。「機械網会社ノ如キハ創立以来漸次産額ヲ増加シ一時ニ一カ年六十万円ニ達セルコトアリシモ社運漸ク振ハス目下ハ他ノ製網会社ノ特約工場トナリ其ノ注文ヲ受ケテ工賃ヲ得ルニ過キス」(『産業調査報告書』第12巻、北海道庁)。
 報告書によると、機械網会社の年産額は、2万2629円であり、これは製網合資会社の支払賃銀額と対応する金額である。そして、最終的に北海道機械網会社の土地・建物・諸機械が買収されたのは、合資会社設立後、6年目の大正5年11月であった。買い受けたのは函館製網船具(株)(資本金30万円)で、この会社は大正2年設立と同時に、函館製網合資会社および樋爪船具店の営業全部を継承したものであった。しかも、この買収資金は大正5年に増資した3万円の全額を末富孝治郎が応募して調達された形式となっている。函館製網船具(株)(以下屋号であるウロコと略す)の取締役社長は岡本康太郎、常務取締役は末富孝治郎であって、両者の緊密な協力なしには、その後の発展はなかったといわれている(高田弥彦「ウロコ考」9『鱗友』25号)。
 大阪商人の系譜に属する岡本が、工業家で一度は挫折した末富の協力を得ながら巧みに工業経営を進めた実績は、この後の地場産業の発展方向に大きな示唆を与えるものであった。

岡本康太郎(『函館名士録』昭和11年)

末富孝治郎(『函館名士録』昭和11年)
 次に、大正3年度の第1期以後のウロコの発展を営業報告書の文言を引用して要約しよう。この頃から露領漁業の躍進があったが、道内漁業はもちろん「内地方面ニ在リテモ漁撈法ノ改良ニ伴フ漁網漁具類ノ需用益々増加シ常ニ供給不足ノ憾アリ」といった状況で、しかも「露本国及其他諸外国ヨリノ商談モ多ク」あったのである。しかし、ウロコは「最モ堅実ヲ主旨トシ特殊ノ設備ヲ要シ且ツ一時的注文ト思考スル諸外国向キノ製網ヲ謝絶シ」て、「専ラ自家所有ノ編網機ニ依ル製品ノ販売ニ努力」して業績をあげたのである。この自家所有の編網機は、大正5年になって買収したものであることは前述したが、大正6年には「益々需用ノ増加スヘキヲ予期シ」て、「前期末ニ買収セル綿糸撚糸及製網両工場ヲ拡張シテ」需要に応じたのである。岡本康太郎の回顧談によると「当時の商売はむしろ先物買いであり、漁の予測に基づく在庫品を如何に持つかに商機がかかっていた」から、「必ずしも生産設備の有無が経営の優位性を強く左右することは少なかった」のである。それゆえに、生産設備を持った後でも「生産した方が有利なものは会社で作り、その他のものは外注に出す」ことが、一貫した営業方針であった。価格の変動の激しい原料の綿糸紡績糸を仕入れて、2か月後に製品が完成されることを考えると、供給先が豊凶の激しい漁業であることとあわせて、いかに漁網製造業の経営がむずかしいかを理解できるであろう。
 なお、ウロコは漁網部門の他に、船舶機械部を兼営しているが、この期は海運界の好況があり、また道内では鉱山業、製材業その他工業の勃興があったので、船具・機械類の販売額は増加した。そして、大正7には経営不振となった有江鉄工所の再建に、岡本と末富はのりだしている。以上に関連して東京に支店を設置し、米国より鉄類の直輸入を行っている。
 このように、漁網部をはじめとして他の部門を含めた営業総収入は、大正3年の110万円が、6年には380万円、7年には411万円、8、9年ともに390万円に達しており、配当も8%から40%までの高率で、この他にも実施した記念配当を増資に充当するなどして、大正9年には資本総額200万円となつた。「一貫セル堅実主義ト商品其他ニ対スル周到ナル用意」を以て、発展を続けるのである。

函館製網船具(株)亀田工場(『函館市制実施記念写真帳』)

→表1−36 主要企業の経営の推移

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