通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
3 主要企業の動向

函館船渠(株)

北海道セメント(株)

北海道人造肥料(株)

北海道機械網(株)

函館水電(株)

北海道人造肥料(株)   P116−P117

 日露戦争により満州からの大豆粕および樺太からの鰊締粕が輸入途絶となったので、肥料の価格は暴騰し、人造肥料の需要は激増した。肥料業界の活況をみて、戦後人造肥料業者の設備の拡張、新会社の設立が相次いだ、函館でもいち早く、明治40年、資本金100万円(払込済25万円)で創立されたのが北海道人造肥料会社である。発起人は園田実徳、井上角五郎(東京市)、二木彦七(函館区、北海道セメント会社の整理委員)らであった。工場所在地は亀田村有川通で港湾に臨み、亀田停車場からの引込線があった。主原料の燐鉱石は太平洋島から函館港に直輸入して、製造した過燐酸肥料を道内の農業に供給する北海道では唯一の人造肥料工場であった。40年末には諸設備が完成して、翌年1月から約10万叺(1叺は10貫)の製品を生産する運びとなった。動力は蒸気力で125馬力である。ところが、まもなく同年の5月に、東京人造肥料(株)との合併の仮契約が調印され、8月には引継ぎが完了して、北海道人造肥料の社名は消滅する。
 これは前述のように、肥料業界では40年頃からすでに過剰生産の様相をみせ、41年には不況、農産物価格の低落があり、東京人造肥料会社を中心として急速に企業の集中が進められたことによるものであろう。合併は東京人造肥料会社の24円払込済株式1株と北海道人造肥料会社の12円50銭払込済株式4株の割合で行われた。東京人造肥料会社は逐次合併を進めて、43年には大日本人造肥料会社と改称し、同社の函館工場となった。
 一方、道内の開拓事業は進展し、化学肥料の需要は増加したので、大正元年末には硫酸鉛室を増設して生産能力は50万叺となり、製造量は大正2年以降この水準を維持している。ただし、第1次世界大戦により原料の燐鉱石の函館港直輸入は急速に減少したので、東京本社よりの原料および製品の供給を受けて、前述の水準を保持した。道内の化学肥料需要量に占める大日本人造肥料会社の比率は66%であった。

→表1−36 主要企業の経営の推移

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