通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
2 函館工業の近代化への途
2 業種別各産業の動向

製材・木製品工業

食料品工業

肥料製造業

製紙・印刷業

糸縷布帛工業

製網業

その他の工業

 商業会議所の業種分類(表1−32注→驚く工業生産額の伸び)では、化学、窯業の区分がないので、これらの業種をその他の工業として述べる。

その他の工業   P108

燐寸製造業   P108−P109

 明治35年に創立した函館燐寸製造所(表1−35参照→函館船渠(株))は41年に東川町の製紙工場跡地へ移転した。43年以降では道内で唯一の燐寸製造所であった。45年春に工場が全焼したので、新たに資本金1万5000円の株式会社の設立となった。大正2年では、職工数95人のうち女子は75人であり、区内では製網工場や製綿工場、製薬工場とともに女子労働力を雇用する数少ない職場であった。15.5馬力の動力をそなえ、2年の製造額は2万4000円であった。原料のうち軸木は道内産で、薬品と紙類は大阪、神戸から仕入れた。販路は道内80%、うち区内20%、道外20%であった。本州から区内への移入額は4万数千円で、神戸の日本燐寸会社との激しい競争があった。函館燐寸の生産費は本州よりやや低廉ではあったが、製品の品質面で火付が悪い、小箱が破損しやすい、横薬を塗った紙が破れやすいの欠点があり、本州品より5%の安値であった。特にレッテルの色合、意匠が明快さを欠くといわれた。大正6年には製造額4000円、職工数18人と低迷したが、7年、8年には3、4万円の製造額に回復している。

硝子製造業   P109

 前期に創立の和田硝子店、安斉商店は薬壜を、明治44年に帆影町に設立の玉村硝子工場は火屋(ほや)および硝子器具を製造した。そのほか大正2年には摺硝子を生産する小工場が1、2軒参入している。いずれも区内から仕入れた屑硝子を原料とし、販路も地元が主であった。大正7年の製造額は2万7180円である。本州からの硝子類移入額は7年で約16万円であった。

製革業   P109


中村毛皮店の内部(『冨の函館』大正元年)
 「北海毛皮」といわれて明治初期から函館の特産品であった毛皮は英国市場へ輸出されているほか、この頃は国内の需要も増加してきた。しかし、ラッコ、オットセイの乱獲と禁漁のため産出額は減少し、また第1次世界大戦による輸出の一時的中止もあった。原料は道内、北千島、樺太および露領の熊、獺、孤が主であって、製革方法も中国式から明礬製の欧米式へと進歩した。小川、中村、吉村、松下商店の工場が前期より引続いて営業しており、馬具類や靴、鞄などの製革品を生産する工場も増加してきた。創業の古い小川製革所は大正7年には日本毛皮(株)(資本金50万円)函館工場へ組織変更している。

煉瓦工業   P109−P110

 平良治の平煉瓦工場は明治39年に、石館友作外数名に約3万円で買収され、資本金10万円の函館製瓦合資会社(表1−35参照→函館船渠(株))となった。亀田村の工場では、明治末期に職工および労働人夫を100余名使用して、煉瓦および瓦の販売高は大正2年まで2万数千円であった。大正3年には蒸気50馬力を導入して、従業員は半減したが、製造額の上昇はなかった。
 また、大正7年からは千代ヶ岱や五稜郭に煉瓦工場が3工場立地して5万余円の生産額があった。大正7年には製陶所が1工場開設され、2万円の生産高であった。漆器の工場も7年には12工場あり、生産額は9万2280円であった。
 このほか前期と同じく熊谷工場の石鹸が大正7年で4万2800円、熊谷工場ほか1工場の石蝋・蝋燭の生産額が2万8800円であった。製氷では、竜紋氷室により五稜郭の天然氷が約1万円内外が産出されていた。その約8割は管外へ移出されたが、大正4年からは産出量が減少し、ほとんど管内で消費された。
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