通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
1 発展する函館商業
2 日露戦争後の海外貿易

中国市場と函館の貿易

漁業貿易

通商圏の多様化と主要貿易品の変化

拡散する道内貿易港

通商圏の多様化と主要貿易品の変化   P79−P83

 この時期における函館港の主要輸出入国を表1−21に、また主要貿易品を表1−22にかかげた。国別の輸出は中国が一貫して首位の座を占め、全体の40〜60%の間を推移し、明治末年にアメリカ(税関統計は北米合衆国と表記しているが、煩雑さを避けるために単にアメリカとする)やヨーロッパへの拡大をみた時期においてもなお40%台を維持している。開港以来、対中貿易港として発展してきた延長線上にあるが、これはとりもなおさず中国との関係が函館の貿易市場を左右するといえよう。
表1-21 函館港主要国別輸出入額(明治38年〜大正7年)
                                                       単位:千円
 
年次
明治38
39
40
41
42
43
44
大正1
2
3
4
5
6
7
輸出 中国
アメリカ
オーストラリア
イギリス
カナダ
ロシア
香港
関東州
1,467
529
166
101
29
20

1,280
663
273
52
25
865

1,117
479
126
43
26
315
1
1
1,305
224
468

51
131

1,140
263
324
8
77
59

27
1,260
288
313
31
47
152

10
1,103
345
160
109
40
111

1
1,211
470
300
370
147
165
4
14
1,988
396
464
325
57
153
33
68
3,075
197
507
485

487
12
64
3,329
259
439
406
129
219
1
4
3,168
473
211
187
164
635
32
27
3,471
492
1,140
611

348
195
70
5,134
673
895
599
12
255
23
289
輸入 アメリカ
イギリス
ロシア
中国
仏領インドシナ
太洋島
関東州
728
118
31
4


876
13
773
1


608
41
13
5


277
18
8
3


469
25
8
2



84
6
2

66
54
19
8
3

91
2
279
48
14
5


108
30
19
2
324
177
10
22
15
2
480
96
17
205
49
19
8

84
10
485
130
28
46

82
31
255

68
117


271
202

78
471


723
『函館税関貿易年表』『函館税関外国貿易概況』『函館港外6港外国貿易概況』より作成
−は単位未満もしくは0
関東州は現在の中国の遼東半島の南部、仏領インドシナは現在のベトナム・ラオス・カンボジア、太洋島は現在のオーシャン島
表1−22 函館港主要貿易品輸出入額(明治38年〜大正7年)
                                            単位:千円
 
年次
明治38
39
40
41
42
43
44
大正1
2
3
4
5
6
7
輸出 昆布類

輸海参
貝柱
鱶鰭
出乾鱈
塩鱒
缶詰類
硫黄
1,068
162
106
49
31
3


713
793
131
135
68
39
14


924
744
61
104
25
39
5


689
688
315
129
69
40
28


762
522
272
116
97
49
25


743
812
208
92
52
30
17


899
541
199
87
42
29
19
139
103
569
546
235
81
64
37
24
197
364
920
794
394
87
86
48
41
552
320
924
1,038
651
106
138
35
67
955
786
717
1,210
463
140
146
37
57
1,175
407
950
1,154
574
219
116
44
85
943
5
1,317
1,088
751
196
155
59
167
1,266
5
1,230
1,999
472
398
401
55
140
1,869
216
893
輸入 麦粉
輸石油
燐鉱石
食塩
128
594

305
547

219
252

39
174


420



66

49
91

195
31


277


230
16

101
84

37
82
31

6
173
267


228
669
『函館税関貿易年表』『函館税関外国貿易概況』『函館港外6港外国貿易概況』より作成
…は単位未満もしくは不明
 こうした傾向は昭和初期までは変わることがない。中国に輸出されるのは海産物がおもであり、明治末期は100万円台で推移し、大正3年以降は300万円台、7年には500万円台と大幅な伸びをみせる。海産物のうち昆布の占める比率が高く、その輸出は明治末年では全国総輸出の40%を占めている。特に、大正2年に日本郵船が函館・上海直航便を定期化したことにより、中国向けの海産物輸出が増加したほか、昆布等海産物の販路が華北へと拡大していったことも伸長の要因となった。昆布のほか鯣も大正期に入ると重要度を増し、海参、貝柱、鱶鰭、刻昆布、乾鱈などとともに主要海産物品を構成する。
表1−23 重要輸出品の全国比
                            単位:千円
品目
大正4
大正5
大正6
函館
全国
比率
函館
全国
比率
函館
全国
比率
昆布類

海参
貝柱
硫黄
1,210
463
140
146
950
1,950
2,679
580
1,007
2,487
62%
17
24
14
38
1,154
574
219
116
1,317
2,460
3,067
820
1,134
6,215
46%
18
26
10
21
1,088
751
196
155
1,230
2,833
4,129
636
844
6,142
38%
18
30
18
20
大正6年『函館港外6港外国貿易概況』より作成
 またこれらの全国輸出に占める割合については表1−23のとおりであるが、昆布が全国的にも函館が大きな位置を占めたほか、他の貿易品も20%前後の比率を示している。対中国輸出は前述のとおり、総額の60〜40%であるが、ほかに関東州(遼東半島の南部で大連を含む。明治38年から日本の租借地となった。のちに成立する満州国の玄関口)経由の6、7%を含むと70%を越える年もあった。中国についで明治末期はアメリカ、オーストラリア、ロシア、大正期に入るとイギリスが加わる。アメリカは明治39年の9%から42年に11%、45年は18%とその比重を増し、オーストラリアも明治39年の8%から大正6年では17%となる。イギリスも次第に比率が高まり5〜7%を占めるようになる。
 アメリカ、オーストラリアへは硫黄輸出が中心であった。硫黄輸出は明治30年代なかばから顕著なものとなるが、明治末年には古武井硫黄山や鹿部鉱山などの5か所の鉱山が道内にあり、年間4000万斤以上の産出高をあげていた。火薬原料、人造肥料原料、石油精製用、製紙漂白などと、その用途は多様であり、世界市場ではイタリア産、アメリカ産と日本製品が競争をしていた。欧州市場は従来はイタリア産の独占であったが、製紙漂白用としてスウェーデンが新市場として開拓されてきたほか、英領アメリカ(現カナダ)への輸出も行われるようになった。また硫黄は廉価製品であるために輸送費用が輸出コストに直接影響を及ぼすこともあって帰路に空船となる国際便船を利用するという非常に他者依存型の商品であった。函館港は上記の鉱山が産出する硫黄の集散地であり、鉱山主と函館の輸出商(キング商会)とが密接な取引関係をもっていた(明治43年『函館税関貿易年報』)。
 ロシアはおもに沿海州や北サハリン方面に輸出されているが、貿易統計上で露領アジアと表記されたのも、そのためである。以前から、ロシア人向けの漁業資材や食料品などの日用雑貨等が輸出されていたが、戦前に急減し、日露戦争が終結すると回復基調をみせ、ニコラエフスクを中心にウラジオストクや北サハリンに輸出された。明治末期にはシベリア鉄道沿線地域の開発に伴い農産物輸出が増加した。しかし函館とロシアとの貿易は漁業貿易、すなわち露領漁業にかかわるものが大きな意味を持っていたが、普通貿易ではその比重はやや下がり、農産物や工産物といったロシア向けの輸出品の多くは小樽が優位を占めていた。イギリスヘの輸出は大正期に入ると顕著となり、30〜60万円台を記録する。主要品目は大正7年で豌豆、澱粉、蟹缶詰がおもであった。このほかに関東州は大正7年になると大幅に伸びているが大半は塩鱒である。
 一方の輸入に関しての国別と主要貿易品をみると、明治末期はアメリカが多く、大正に入るとアメリカのほかにロシアや関東州も目立つ。アメリカからのものは石油が大半を占めている。函館への石油輸入は従来はロシア産と米国スタンダード石油会社の製品が占めていたが、日露戦争によりロシア産の輸入が途絶するとアメリカ産の独占となった。一方では東北・北海道においてイギリス・ライジングサン石油会社が青森の野内に油槽を設置し、販売を開始した。さらに新潟の国産石油が開発されると3者による競争となったが、米国産が主力で輸入市場が形成されていった(明治43年『函館税関貿易年報』)。ちなみに青森は明治39年に貿易港として開港されたが、イギリス・ライジングサン石油会社がただちに青森に油槽を設置、同年の青森への石油輸入額は29万円にものぼった。この年の函館は50万円強であったことから、青森における初年の輸入額の大きさがわかろう。北海道・東北地方では函館が石油輸入の中心を占めていたが、青森に貯蔵タンクが設置されたことにより比重は函館から青森へと移っていった。
 これにかわるように明治43年以降、燐鉱石が人造肥料の原料として函館へ直輸入された。函館における人造肥料製造に関しては別に記述されているが、明治40年に亀田村に設立された北海道人造肥料(株)が、東京人造肥料(株)函館工場を経て、43年に大日本人造肥料(株)となり本格繰業がはじまったことが燐鉱石の輸入を大きなものとした。当初は太洋島(現オーシャン島)から輸入されたが、その後アメリカのフロリダやクリスマス島からも輸入された。大正期に入ると関東州からの食塩、豆粕の輸入が顕著となる。また機械類はイギリスから、鉄材、同製品、小麦などはアメリカから、石油は蘭領インド(現インドネシア)から、飼料は中国から、毛皮はロシアからとそれぞれに輸入されたもののきわめて間欠的な傾向を示した。
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