通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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序章 北の大都市の時代

20万都市への急成長

モダーンな街

繁栄を支えた露領・北洋漁業

市民の職業構成と労働運動

戦争のなかで

市民の職業構成と労働運動   P11−P13

 20万都市へ急成長を遂げていたこの期の函館の市民はどのような職業に就いていたのであろうか。大正9年と昭和5年を例にとると、大正9年の職業別就業者は、商業が第1位で全就業者(5万4478人)の28%強を占め、次いで工業(25%)・交通業(17%)・水産業(11%)・公務自由業(7%強)・農業(2%)・鉱業(0.2%)・家事使用人(0.1%)の順になり、「その他」が約8%で公務自由業より多く、公務自由業の比重はまだそれ程高くなかったことが分かる。ところが、昭和5年になると、商業が依然として第1位で全就業者7万5384人の30%強を占めているが、第2位以下は、工業(22%)・水産業(13%強)・交通業(10%強)・公務自由業(9%)・家庭使用人(4%強)・農業(1.7%)・鉱業(0.2%)・その他(8.5%)で、水産業と公務自由業の比重が高まってきている(ともに「国勢調査報告」による)。
 以上の数字から、大正・昭和初期の函館は、都市の性格という側面からみれば、当時の函館は、まさに″商業都市″であったといってよい。しかし、同時に注目しておきたいことは、先に見たように、この期の函館を支えた経済的基盤は、露領・北洋漁業の急速な発展とそれに伴う工業・交通業などの発展によって、こうした関連産業に勤務する市民が多くなるとともに、公務自由業の比重が高くなってきていることが端的に示しているごとく、全体的動向としては、資本に対する労働という意味での労働者が増加するとともに、そのなかでの公務労働者の比重が次第に高まって来ていることである。
 しかし、当時の函館市民は、もう一つの顔をもっていた。それは「本業ナキ従属者」と称されたいわゆる「副業者」が極めて多かったことである。大正9年の国勢調査によれば、副業者数は、本業者総数5万4474人に対し8万1807人を数え、その内女性が68%を占めていたのである。彼女たちが従事した業種で特に多かったのは、漁業、木・竹製造業、食料品製造業、物品販売業、旅館・飲食店業などであった。つまり、当時の函館の経済は、男性のみならず、多くの女性労働者によって支えられていたのである。さらにまた、この期の函館は、露領・北洋漁業の発展によって、露領・北洋漁業を始め、関連産業や港湾労働に雇用される季節労働者・出稼ぎ労働者がどっと流入してきていたが、彼らの主な出身地は、東北地方、特に青森県・秋田県・岩手県の東北3県であった。そして、彼らもまた一時的とはいえ函館の市民を構成していたことを見過ごしてはならない。したがって、こうした側面にも目を向けるならば、先に見た、この時期のモダーンな街函館を労働・消費生活の両面から支えたのは、まさにこうした多くの女性や流動的な出稼ぎ労働者を含めた様々な業種の勤労市民であったといっても過言ではない。
 また、この時期は、社会・労働運動が高揚した時代でもあった。全国的には、大正元年、キリスト教的人道主義者鈴木文治の指導のもとに労働者の共済・親睦団体である「友愛会」が設立されたのがそのさきがけであったが、その後全国的に労働争議が頻発するなかで、「友愛会」は、次第に労働組合としての性格を強め、大正10年には、日本労働総同盟へと発展した。こうしたなかで、大正4年12月、友愛会函館支部が結成され、翌年4月には、友愛会会長の鈴木文治が函館をはじめ全道各地を遊説したが、大正7年5月、日本郵船株式会社函館支店の″はしけ人夫″250人が賃金の引き上げを要求してストライキを行った。これが、現在のところ史料によって確認できる函館における最初の労働者のストライキである。函館における労働者のストライキがはしけ人夫のストライキであったところに、この期の函館の特徴がよく現れている。
 その後、日本の近代史上最初の大規模な民衆運動と評される大正7年の″米騒動″を大きな契機として、翌大正8年以降、函館においても社会・労働運動が高揚し、労働組合が結成されるとともに、各職場において賃上げ・労働条件の改善などを要求したストライキが頻発した。函館における最初の労働組合は、大正8年12月結成された函館造船木工職組合(組合員約300名)で、次いで大正10年7月に函館製材職工組合、大正11年6月に函館印刷工親交会、大正14年5月に函館水電株式会社従業員交誼会などが結成され、その後も各職場に相次いで労働組合が結成されていった。また、大正・昭和初期における代表的な労働争議をあげると、大正8年7月の函館駅貨物扱請負業丸辰組の人夫約100名によるストライキ、同年7月の函館船渠製缶職工全員のストライキ、大正14年5月の函館水電株式会社の電車従業員のストライキ、昭和3年2月に函館ドック工愛会組合員のストライキなどがある。このうち、函館水電株式会社の労働争議は、「北海道初の交通ストライキ」として有名であるが、この争議は、その後、函館市による水電会社の買収問題とも絡んで、水電会社内部の労働争議から市民をも巻き込んだ政治問題へと発展していった。この期における電燈の急速な普及と工業をはじめとする露領・北洋漁業の関連産業の発達に伴う電力需要の増大、路面電車の発達という側面に目を向けると、函館水電株式会社の労働争議が、こうした複雑な問題へと発展していったこと自体、当時の函館が巨大な都市へと急成長を遂げていたことを物語るものでもあったということができよう。なお、函館市が水電会社の電気事業を買収し、電車・バスが市営となったのは昭和18年である。また、大正・昭和初期の函館の労働問題で注目しておきたいことは、昭和2年9月、北海道漁業労働組合が蟹工船英航丸の漁夫を中心にして結成されたことである。蟹工船内での漁業労働者に対する虐待問題は、小林多喜二の小説『蟹工船』で知られるように、当時社会問題になっていただけに、この組合の結成は漁業労働者の待遇改善を実現するうえで大きな意味を有するものであった。
 以上からもうかがえるごとく、この時期の函館は、労働運動の全国的な拠点になっていた。それだけに、社会・労働運動に対する国家権力の弾圧が激しくなった昭和初期には、函館における犠牲者の数も多く、昭和3年の「三・一五事件」では、函館における検挙者は52名、起訴者17名の多数にのぼり、「四・一六事件」でも、4名が検挙・起訴され、次いで昭和5年の「戦旗函館支局事件」では、50名が取り調べを受け、13名が検挙された。
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