通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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序章 北の大都市の時代

20万都市への急成長

モダーンな街

繁栄を支えた露領・北洋漁業

市民の職業構成と労働運動

戦争のなかで

繁栄を支えた露領・北洋漁業   P9−P10

 函館の経済は、外国貿易や内国貿易の発展を大きな基盤として明治期に活況を呈するに至っていたが、函館の経済が飛躍的に発展しだすのは、日露戦争終結以降のことである。というのも、明治38年9月に調印された日露講和条約(ポーツマス条約)によって、日本が北緯50度以南の樺太を獲得し、同地域を日本の新たな植民地とするとともに、ロシアが自国の日本海・オホーツク海・ベーリング海沿岸における漁業権を日本に許与したことによって、露領漁業における日本人漁業者の不安定な地位が国家権益として保障されることになったからである。このロシア領沿岸での日露両国の漁業のあり方を規定したのが明治40年に調印された日露漁業協約であった。
 ともあれ、日露講和条約によって、日本人漁業者は、沿海州からオホーツク海沿岸、さらに東西カムチャツカ半島沿岸に至る広大なロシア極東沿岸水域において漁業を営むことができるようになり、これを契機に大多数の船舶が函館港から出漁することになったため、明治末期には、函館港はすでに露領漁業の策源地としての地位を確立するに至ったのである。しかも、この時期には、鮭・鱒の缶詰生産が軌道に乗り、露領漁業も近代産業に転換し、それに伴い、それまでの個人企業家に代わって、産業資本としての漁業企業が露領漁業の主導的地位を占めるようになるとともに、その後大正10年には母船式蟹漁業(蟹工船)、昭和2年に母船式鮭鱒漁業(鮭鱒沖取工船)が操業を始め、さらに北千島での漁業が発展することによって、大正期から昭和戦前期にかけた時期には、露領漁業を含めた広義の北洋漁業が全盛期を迎えることとなったのである。そして、この期の北洋漁業の基地もまた函館であった。
 こうした露領・北洋漁業の飛躍的な発展を背景として、造船業、鉄工業、製材・木製品工業、食料品工業、肥料製造業、製網業、電気産業他の関連産業が飛躍的に発展し、それに伴い函館の工業は近代的な産業へと大きな変貌を遂げていったのである。また、これら諸産業の飛躍的な発展は、当然のことながら、これらの諸産業に従事する労働者の増加をもたらすとともに、そのなかでの事務労働者の増加をもたらすことにもなった。
 また、この期の函館における内外貿易ないしは函館を介した商品流通の状況をみると、次のような特徴がみられた。まず第一に、函館の貿易は海産物の比重が圧倒的に高く、輸出総額の70から80%を占めていただけでなく、北海道の漁業貿易額に占める函館の比率も連年90%以上を維持し、漁業貿易において、函館は独占的な地位を占めていたことである。第二に、明治末期から昭和戦前期にかけて、輸出構造が大きく変容していったことである。その際立った特徴を幾つか挙げると、(1)函館開港以来、函館の主要な輸出先は中国で、函館輸出総額の50から60%を占め、しかも、わが国の対中国海産物総輸出額の30%前後を函館が占めていた。そのため、函館の輸出品も、従来は、昆布・鯣・イリコ・貝柱といった、いわば近世以来の長崎俵物に類する物が圧倒的に多かったが、露領漁業の発展に伴い、対中貿易に占める露領産塩鱒の比重が次第に高くなっていったこと、さらに、(2)露領・北洋漁業において、明治末期に鮭・鱒の缶詰生産が軌道に乗り始めたのに加え、大正10年代から昭和初期にかけて洋上での母船式蟹漁業・母船式鮭鱒漁業が急速に発展したことなどの要因を大きな背景として、輸出先がイギリスを始めとするヨーロッパ諸国の比重が次第に高まるとともに、主要な輸出品も塩鱒・昆布・鯣を中心とした海産物から鮭・鱒・蟹などの缶詰類に移行していったこと、(3)しかし、一方で、こうした構造的な変化を遂げながらも、他方で、満州事変を契機に日本の中国への本格的な侵略が開始されたこともあって、中国における日貨排斥運動に遭遇しながらも、鯣・昆布・貝柱・干鱈などの中国への輸出は伸長したこと、などの諸点がそれである。
 以上の経済動向からうかがえるように、この時期の函館の繁栄を基底部で支えていたのは、露領・北洋漁業であった。それだけに、この期には、日魯漁業株式会社をはじめとする露領・北洋漁業ないしは漁業貿易に関連する海産商が函館の経済を支えるうえで大きな役割を果たしたのである。
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