通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第13章 社会・文化諸相の光と影 芸娼妓の関心 |
芸娼妓の関心 P1423−1424
たとえば女紅場開場時の規則では「芸妓娼妓ハ営業規則第三十一条第三十八条ノ主意ヲ体認シ必入場」と、一応全員(13年の規則改正により30歳以下、15年の改正では25歳以下と年齢が制限されている)の入場を建て前としながらも彼女らの自由意志に任せていた。ところが14年の『北海道学事新報』には「函館女紅場ハ兎角是まで生徒の不出席がちにて惣員の過半に至りし事ハ稀なりしが、近頃追々督促法を定められしに生徒の出席も増加し十に八、九まで出校するよし」と出席が悪いので督促法が定めれたことが記されている。また9年8月の三営規則では、違反者へ「罰金十五円以内、病院女紅場育児社等ニテ苦使四ヶ月以内」の処分におよぶとあった罰則が、函館県時代の16年の娼妓取締規則では「過料金三拾円以内又ハ苦使六ヶ月以下ニ処シ、且ツ営業ヲ停止若シハ禁止スベシ」とかなり厳しいものに代わっている。なぜこのように規則で強制し、罰則を課せなければ彼女たちを登場させることができなかったのだろうか。 実際本業をこなしながらその余暇の日中に5時間も登場することは、彼女たちにとっては大変な負担であったと思われる。女紅場の課業内容などについては平朋子氏も「函館女紅場の実態とその意義」(『地域史研究はこだて』6号)の中で詳しく触れられているが、たとえば女紅場では洗濯・裁縫・文学を1日毎順番に教授していたが、洗濯が「最労ノ業」で、洗濯の教科が当たった日は火のし(アイロン)の道具が重く手が震え、三味線が弾けなかったというほどの重労働だったという(高須墨浦『函館繁昌記』)。また余暇を利用するということでよく登場する芸妓は″お茶引き″だと言われ、うれない芸娼妓が女紅場へ行くのだと噂されたともいう(明治16年1月24日付「函新」)。彼女たちのための施設ではあったが、彼女たちの実情を無視した行政サイドでの施設であった女紅場の矛盾が、これらの出席率にも表れていたものと思われる。また女紅場のはじめての全科卒業生2名が出たのは開場後5年たった16年のこと(増訂『北海道要覧』)で、以後翌17年1名、18年2名、19年6名で、これらのうち18年まではすべて芸妓、19年になってはじめて娼妓5名が卒業したということである。この数字もまた女紅場へ通うことの大変さと彼女たちの関心の度合いを表しているように思える。 |
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