通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第13章 社会・文化諸相の光と影
第1節 公娼制度と函館の遊里
5 授産施設女紅場の開設と機能

女紅場の出現

女紅場設立へ

女紅場着手順序提綱

教員・役員

女紅場開場

支場の設立

管理と椎持

芸娼妓の関心

女紅場の閉鎖

西洋洗濯伝習所

女紅場の出現   P1417−P1418

 明治5(1872)年10月に出された人身売買を厳禁し、芸娼妓を解放しようという画期的な太政官布告によって、人身の自由を奪われ雇い主の虐使に泣いていた芸娼妓たちは″解放″の法的根拠を得た。しかし悲しいことにせっかく与えられた自由ではあったが、花柳界で生きてきた彼女たちの大半はその自由を自分たちのものとして自活していく方法を知らず、結局またもとの抱え主の戸をたたいたのである。このような悪循環を繰り返すことなく、芸娼妓たちが将来契約が切れて正業に転じた時、立派に自活することができるようにと、彼女らの自立のために必要な最低限度の知識や技術(女工)を身に付けさせるために設けられた施設が「女紅場」であった。女紅、すなわち「婦女子のなす仕事」を教えるための場所である。
 遊里の女性のみを対象としたこの種の女紅場が我が国に初めて開設されたのは京都で、芸娼妓が解放された翌6年、貸座敷主たちが中心となって開設・運営した「婦女職工引立会社」に始まり、翌7年には、多少の読み・書き・算術指導をも加えて女紅場と改称した。こうして開設された芸娼妓のための女紅場は、各地の遊里へ徐々に広がっていった。

 

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