通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第12章 医療機関の設置と衛生
第1節 病院の開設とその機能
1 函館病院の開設と役割

幕末の外国人医師たち

ロシア病院と医学所の設立

新体制下の病院

院舎の変遷

病院の所管の変遷

院舎の変遷   P1371−P1373


第2代病院長 深瀬鴻堂 深瀬鴻一郎氏蔵
 明治4年には愛宕町(現船見町)に病院が新築されて移転した。病院は1027坪の土地に建設され医員詰所2階付が83.25坪、病室2階付が35.75坪、病室平屋が62.50坪という規模であった(『開事』)。なおこの年はまた病院の所轄がかわり、東校(大学東校が改称)から再び開拓便の管理するところとなった。また開拓使の本庁が札幌へと移った。それまで函館病院の所管にあった札幌病院も、5年頃には本庁の病院掛の直属となったらしい(『新北海道史』通説2)。この時から、それまで北海道全体の衛生行政の要の位置にあった函館病院の役割も、次第にうすれていったものと思われる。6年に病院は民事課の所管となった。そして9年になると院長の馬島は札幌病院長を兼任し、翌年は札幌病院に転任したので、当時副院長の深瀬鴻堂がその後を継いだ。
 ところが、新築して7年めの11年12月、山上町常盤座から出火した火事は院舎を襲い、病院は焼け落ちてしまった。それでも仮の家屋2か所を病院と病室にして診療はなんとか続けられた。しかし翌年12月にこの仮病院と病室はまたしても類焼してしまったのである。12月16日の「函館新聞」をみると「函館官立仮病院類焼に付ては、当分同所構内裏長屋に診療所を設け」従前通り診療するという記事があるので、再度の火災にも関わらず診療は続けられたようである。しかし官による院舎の再建は行われることなく、13年になるとついに病院の廃止が決定されたのである(明治13年11月28日「函新」)。官立病院の廃止は全道的な動向であって、10年には21のうち、8病院が廃止されていた。これに対し地元の有志者たちは、公立病院として新築しようと、渡辺熊四郎らが率先して行動を起こし、多くの人々の寄付により14年中に新病院が落成した。「函館新築公立病院寄付金願書綴込」という綴りにある寄付者は、252名で上は30円から下は50銭までを拠出し、総額1265円70銭を集めた。建設された場所は現在の市立函館病院のある所である。これは公立函館病院と称された。医員の報酬はこの以後も官費から支給されたし、当面は器具類なども開拓使から下付されるなどの援助があったが、15年下半期からは区内協議費に予算が計上され(明治16年「区会議事録」)、名実ともに区の病院となったといえよう。

明治14年再建された函館病院

明治14年 函館病院職員 関谷八太郎資料(上磯町教育委員会蔵)
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