通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第11章 函館における宗教世界の諸相
第2節 北海道開拓と寺社
2 神社にみる北海道開拓の論理と社格争い

北海道開拓と神社

社格争いの現実

2つの八幡宮

函館八幡宮と札幌神社

北海道開拓と神社   P1330−P1331

 北海道の近代においては、寺院開教=地域開拓=文明開化という三位一体の構図が想定されていたことを先に確認したが、それでは、近代宗教界の主座を占めることとなった神社群は、北海道開拓や地域の開拓にどのように関わったのであろうか。次の3つの史料をまず注目したい。

(A)一、今般蝦夷地一円御料ニ相成、追々御開ニ相成候ニ付、蝦夷地ノ中ヘ当社八幡宮ノ末社勧請仕、蝦夷地惣鎮守として宮祠造営、天下泰平・国家安穏・五穀豊穣・四夷摂伏・漁業充満・船々海上安全弥相祈、於場所々々氏子ノ者申勧、田畑開墾仕度奉存候(後略)
                                                 (「菊池重賢文書」北大蔵)
(B)一、西地ヲタルナイ・タカシマ御場追年繁花ニ相成、永住ノモノ数多御座候処、未鎮守ノ神社無之候ニ付、運上家并右両場所信者且世話方ノモノ等可寄付間、ヲタルナイ運上家最寄ノ地所ヘ住吉大神一社致造営(後略)
                                                            (同前)
(C)草眛ナル地ヲ御開拓被成候ニハ、必ズ人民ヲ集ルノ方法ナカル可カラズ。其人ヲ集ムルヤ散ゼザルノ法ナカル可カラズ。其人ガ集リ散ゼザルノ法ハ敬神愛国ノ心ヲ固セシムルニ在リ、其敬神愛国ノ心ヲ固セシムルニハ、神社ヲ壮大ニシ布教ヲ盛ニシ神徳ト皇恩ヲ報ズルニハ斃シテ出ズト決心セシムルニ在リ(後略)
                                                     (「開公」五八七九)

 史料(A) は、幕末も押し迫った安政5(1858)、「箱館総社」=八幡宮神主の菊池が、自社を「蝦夷地惣鎮守」と位置づけながら、石狩の地に石狩八幡宮なる末社を勧請したい旨を箱館奉行所に申し出た文面の1節である。(B) もまた、同じく菊池が小樽に住吉宮を造立すべく願い出た文面の一部である。
 恐らくこの(A)(B)2つの史料から、神社が寺院と同様に北海道の開拓と密接に関わり合ってはいるものの、その開拓との関わり方が寺院とは少しく趣きを異にしていることに気付かれるのではなかろうか。
 神社は一定の開拓が進行し、一定の住民がその地に根付いた後に造営されることが一般的であったのである。そのことを、史料(C)が最も端的に物語っている。すなわち、当該地に集住した人々の分散を防ぐには神社を壮大にすることが最善の方法であったのである。
 そして、こうした神社を媒体とした人口定住を推し進めていく上で、方策として採られたのが他でもなく、競馬の興行であった。「本社(札幌神社)例祭ノ節、境内ニ競馬場ヲ設ケ人民ヲシテ競馬為致ナバ、土地ノ旺昌ハ勿論、神明ノ御心ニモ相適ヘ可申」(同前)というように。
 こうしてみれば、北海道近代における神社は寺院のような積極的ないしは先鋭的な開拓論を唱えるのではなく、どちらかといえば、人々の当該地における定住・定着を促進させる役割を果たしていたことを示しているのではあるまいか。
 とすれば、等しく「北海道開拓と寺社」とはいうものの、寺院は文字通り「開教」=「開拓」の倫理を表面に出したのに対し、神社の方は先鋭的な開拓よりも「定着」の論理を着実に実践していった、と見なしてそう大過ないだろう。
 このように、近代北海道にあって、人々に定着を説き続ける点においては軌を一にしていた神社群であったが、寺院の本末制にみたように、この神社の世界にあっても、ある種のタテのヒエラルキーな序列争いが現実的な問題として横たわっていた。神社と神社との間に、最も生々しく開展した「神格争い」がそれである(田中秀和「北海道における宗教政策の展開とその地域的特質」『地域史研究はこだて』第9号)。
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