通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立
第2節 諸工業の発展
2 その他の諸工業の動向

食品工業

生産財工業

その他の諸工業

食品工業

刻昆布   P1094−P1096

 前期末には「年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスル」と推測された刻昆布製造業は、20年をピークに清国向け輸出が減退しはじめた。加えて印の製造元小林重吉は昆布価格の低落により漁場経営が不振となり、23年には印高橋清作へ東川町の工場を渡すことになり、23年に参入した久米田与三右衛門と高橋清作の2人が20年代の主力営業者となる。鶴岡町の工場と西川町の工場は、21年と26年に脱落した模様である。製造額も23年および25年では、1万5000円に低下している。しかし、高橋、久米田両者とも品質の向上には熱心で、高橋の製品は商品標本として商業学校の標本陳列場に陳列(24年6月7日「函新」)されたり、また製品の外函も従来の縄掛けを薄鉄葉の釘打ちに改良するなど費用を惜しまず、そのため需要地の上海では他品より常に1、2割方高価に販売された。また久米田が23年の東京博覧会に出品した製品は、その光沢あることならびに細きこと恰も紡績糸の如しと横浜の清商から賞美され、受注(23年3月18日「函新」)があった。こうして函館の刻昆布は印、印の製品をはじめとして上海で好評を博し、30年代には新規の参加者が増加する。清国への輸出港別の順位は、横浜、神戸に次ぐが、輸出数量合計に占める函館の割合は、29年度の9.9パーセントから33年には20.0パーセントに、価額割合では29年の12.4パーセントから33年には21.0パーセントへ上昇している。
 ところが、30年10月に刻昆布劇薬混和販売事件が発生する。函館警察署が刻昆布業者7名に対し、刑法第253条の人の健康を害すべき物品を飲食物に混和して販売するの罪に該当するとして、製品の押収告発の手続をとったのである。商業会議所では事件解決のために農商務省へ建白書を提出している。この事件は製品の分析依頼や訴訟裁判を経て、32年6月に道庁よりの着色許可があり一件落着するが、このあと業界では輸出品同業組合法による同業組合の設置を申請し、9月に道庁の許可を得ている。そして、34年は開港以来未曽有の輸出量128万斤となった。38年、業者9名の製造量は122万斤、価額は4万8800円であった。35年以降の状況を工場別に表9−24で示した。
表9−24 刻昆布業者の状況および製造額
                      単位:円
名称
高橋 阿木 加藤 畑中 高橋 渡辺
所在地
旭町 栄町 東川町 栄町 栄町 東川町
創立年月
明治23年12月 明治31年3月 明治33年1月 明治33年11月 明治35年3月 明治35年5月
事項\年次
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
明治35
   36
   37
   38
5,250
5,250
2,340
6,000
4/14
4/14
4/14
4/14
4,500
4,500
3,776
7,000
3/10
3/10
3/10
12/12
7,500
7,500
3,202
7,000
6/18
6/18
4/14
3/12
2,500
2,500
2,736
6,600
3/10
3/10
3/10
3/8
4,800
4,800
4,212
7,000
4/13
4/13
4/13
3/10



6,000



3/10
名称
井 植田 阿保  
所在地
大森町 大森町 大森町 東川町 大森町
創立年月
明治37年8月 明治38年1月 明治38年9月    
事項\年次 製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
製造額 職工
男/女
明治35
   36
   37
   38



4,000



2/8



4,000



2/8



1,200



2/8
2,550
3/10
5,250
5/15
『北海道庁勧業年報』より作成.ただし、同書数字は各年間で精疎の差が甚だしく統計表としては不完全であるが、他に依拠するものがないので、あえて引用した.
 ところで、刻昆布製造業の実態は在函清国商人の製造請負であった。つまり、製品はすべて居留の清商が買取って上海へ輸送する販売方式であるため、業者は製品をなるべく早く販売しようとして清商に競売する。請負価格は上、下の格差が開き一定せず、商権が清商に掌握されている実情で業界への参入脱落が激しかったのである。神戸、横浜港と製品の輸出で競合する函館の業者は、輸出の運賃では不利、しかも職工賃(職工はすこぶる熟練を要するので常に特約して雇った)は本州より割高であったから、競争に打ち克つためには、下等の製品は製造せず、上等、中等品の生産に専念したが、その状況は次の一文で知ることができる。「函館製刻昆布ハ東京、大阪ニ産スルモノヨリハ其ノ製造親切ニシテ、量目ヲ増加センガ為メニ塩水ニ浸シ、或ハ着色上奸手段ヲ弄スルガ如キ事ナク、荷造モ亦他産ノモノニ比シ遜色ナク大ニ優等ナリ」(東京高等商業学校『北海道輸出昆布調査報告書』)。なお、原料の昆布は東京の業者は主として陸中、陸前の産を用い、大阪の業者は主として北海道産を用いたが、函館の業者は根室産の3等の昆布が8割、残りが厚岸、釧路、国後、三石、様似産であった。

清酒   P1096−P1097

 明治20年代には20軒余の酒造家が存在し、清酒醸造石数は千数百石であった。まだ規模の大きい業者は現れていない。本州からは毎年2万石前後の移入酒があり、20年でみると数量では大阪酒30パーセント、越後酒25パーセント、大山酒22パーセント、その他23パーセントであるが、金額では大阪酒(堺のキ印、千歳印)が高級で41パーセント、大山酒17パーセント、越後酒16パーセント、その他26パーセントであった。しかし、30年代になると、堺の上記2銘柄を圧倒して、灘、西宮の別銘柄が続々と市場に登場して来る。一方、地酒は26年の23軒が29年には14軒に減少はしたが、30年代には千石造りの規模も現れて、10数軒の醸造軒数ながらも31、2年には4000石余、33年以降は7000石内外を醸造するに至った。38年でみると、酒問屋で醸造もしている丸善菅谷商店が2400石、明治13年創業の東出長四郎が1300石、500石前後が7軒余であった。その状況は表9−25の通りである。ただし、価格は移入酒より低廉で、商業会議所の物価調査では地酒を立物に採用していない。この頃の醸造は9月から翌年3月まで、2000石以上では4、5月までであり、原料米は函館の米穀商を通じて、越後、越中、佐渡米を主として用い、酒桶は秋田杉を用いた。販路は区内が主で仲買人の手を通して道内にも販売している。その際の輸送樽は大阪酒の空樽を使用した。
表9−25 清酒・焼酎の状況(明治38年における製造量・製造額)
名称
岡田酒造場 東出酒造場 大久保酒造場 丸善酒造場 同第二酒造場 成田酒造場
所在地
台町 鶴岡町 亀田村 音羽町 谷地頭 若松町
創立年月
文久2年8月 明治13年10月 明治17年10月 明治29年10月 明治37年9月 明治32年8月
事項
清酒 職工 清酒 職工 清酒 職工 清酒 職工 焼酎 職工 清酒 職工
製造量 石
製造額 円
296
11,345
9
1,265
38,097
9
245
7,077
5
2,377
73,169
13
348
11,640
4
695
20,727
5
名称
塩井酒造場 山本酒造場 杉浦酒造場   小山酒造場   酒造場 酒井酒造場
所在地
若松町 東川町 小舟町 旭町 鶴岡町 蓬莱町
創立年月
明治36年11月 明治37年10月 明治37年11月 明治37年12月 明治38年8月 明治36年10月
事項
清酒 職工 清酒 職工 清酒 職工 清酒 職工 清酒醤油 職工 焼酎 職工
製造量 石
製造額 円
547
15,848
7
338
9,725
4
53
1,590
1
607
20,031
3

14,000
8
12
480
1
『北海道庁勧業年報』より作成 職工はすべて男

醤油   P1097−P1098

 醤油は移入ものが数千石で推移するが、20年でみると約5割が越後醤油、2割強が東京醤油(亀甲萬、上ヤマサ)、3割弱がその他よりの移入であった。区内では印佐野が主力であるが、特に33年頃からは10軒余の業者で4000石をこえる石数が醸造される勢となり、移入醤油のうちでも、「越後醤油の如きは非常の減少を見るに至り……」(34年10月21日「函館新聞」)とみえている。商業会議所の物価調査には33年以降、佐野の醤油3銘柄(印、サ印、長印)が立物として、亀甲萬、上ヤマサ、越後醤油と並んで掲載されている。価格も前記の3銘柄で移入ものにそれぞれ対抗している。しかし、佐野工場は38年の亀田村火災で焼失した。そのため38年には、東川町の笠川治助の850石、旭町の今井辰太郎の800石があるが、亀田を含む8軒の合計で2580石と前年の5割に減少した。区内の各工場別の状況は表9−26で示した。佐野は火災で廃業するが、その後は丸善菅谷商店が継承して営業した。
(左)佐野味噌製造所(右)同豊川町支所 『実利実益 北海道案内』より
表9−26 醤油・味噌工場の状況(明治38年における製造量・製造額)
名称
茅原醤油 ・味噌醸造場 今井醤油醸造場 細谷醤油醸造場 笠川醤油醸造場 宮崎味噌醸造場
所在地
西川町 旭町 相生町 東川町 旭町
創立年月
明治17年3月 明治31年10月 明治34年1月 明治35年10月 明治27年4月
事項
醤油味噌 職工 醤油 職工 醤油 職工 醤油 職工 味噌 職工
醤油製造量 石
同製造額 円
味噌製造量 貫
同製造額 円
総生産額 円
200

6,381

4,410
1



800
14,000


1



3
48


1



850
11,000

22,132
1





109,680



1

名 称
国兼味噌醸造場 三星味噌醸造場 安井味噌醸造場 丸山味噌醸造場  
所在地
旭町 小舟町 鶴岡町 栄町
創立年月
明治27年4月 明治34年11月 明治35年12月 明治36年9月
事項
味噌 職工 味噌 職工 味噌 職工 味噌 職工
醤油製造量 石
同製造額 円
味噌製造量 貫
同製造額 円
総生産額 円


45,000
9,000


1



4,500
1,200


1



15,000
2,500


1



115,200
23,040


1

『北海道庁勧業年報』より作成 職工はすべて男

味噌   P1098

 20年の移入味噌は25万7000貫であるが、その内訳は津軽味噌が47パーセント、越後味噌が32パーセント、その他21パーセントである。20年代から30年代にわたって、津軽、南部味噌を主として、50万貫内外が毎年移入されている。区内の業者は29年に3軒、34年に8軒とふえて、醤油と同じく30年代前半から醸造高が増加したようである。商業会議所の物価調査では30年以降、津軽味噌、南部味噌と並んで函館産味噌の名称で価格が掲載されているが、津軽味噌より3、4割安価である。36年から栄町の丸山味噌の印が立物として物価調査に採用されはじめるが、それでも津軽、南部味噌より2、3割は安い。区内の38年の醸造高は約30万貫、このうち印丸山味噌が11万5000貫、旭町の宮崎味噌が11万貫であった(表9−26参照)。

麦酒   P1098−P1100


函館麦酒製造所とビアホール 『実利実益 北海道案内』より
 前期においては、石黒源吾が100石未満の麦酒を一時醸造していたが、この期になると資本家渡辺熊四郎と技師金沢正次の提携による本格的な麦酒醸造所が誕生する。明治31年に発足した函館麦酒醸造所である。谷地頭72番地の土地、煉瓦建の工場兼貯蔵庫、その上に建てられた木造平家建1棟(内部には煎麦室とビヤホールがおかれた)、ドイツ製の醸造器械(器械原動力蒸気)、それに運転資本1万円を含めて3万円の開業資本のうち、金沢正次が5000円、残りは渡辺熊四郎が用意して、金沢正次の個人経営の形式で創業された(『初代渡辺孝平伝』)。金沢は兄が東京の桜田ビール会社の経営者であったので、明治20年渡米、サンフランシスコのバーリヤ麦酒会社で研究に従事し、24年の帰国後は桜田ビールの技師であった。したがって、醸造器械の据付はすべて金沢技師があたり、原料の大麦は札幌郡産を使用し、葎草は米国産であった。目標の醸造石数は1000石で、職工は男女10人余、30年10月以降醸造したものを、31年4月下旬より発売している。販売先は区内を主とし盛岡、仙台、秋田、酒田、新潟など各地へ移出した。商標登録は30年12月に受けているが、黒ビールと赤ビールの2種類であった。しかし、商標の図案や肩貼レッテルの広告文は札幌麦酒会社の全くの模倣であり(越崎宗一『函館麦酒始末記』)、また函館ビールの販売にあたった区内の特約店7軒は渡辺熊四郎をはじめ、札幌麦酒会社の函館特約店をかねる問屋が多かった。上述のビヤホールで一般客に提供した生ビールは美味で評判も高かったといわれるから、品質的に札幌ビールに遜色があったとは思われないが、資本力の格差が大きかった。しかも、札幌、恵比須、朝日の3大ビール会社が激しい競争を展開していた時である。34年10月の麦酒税課税に伴なう製品価格の値上げでも、表9−27でみるように函館ビールは値上げ時期がおくれており、値上げ率でも札幌麦酒の14パーセントに対し、函館麦酒は9パーセントで両者の価格差はさらに開いている。
 資本家の渡辺は始めは小さく、試験期間の5か年を経た上で拡張を考えていたし、区内の販売店間でも金沢正次の個人経営を資本金20万円の会社組織に改めようとする動きが33年4月に、すでにおこっていたが、発起人間で2万800余円の工場買収価格に異議が出て、不成立に終わっている。かくて、37年7月を以て函館麦酒醸造所は閉鎖されるが、工場は直ちに丸善菅谷商店が焼酎工場として使用した。創業以来の製造額の推移と札幌麦酒会社との比較を表9−28で示した。金沢正次は廃業後、函館を切上げて南洋方面(シャム?)へ行き、石鹸の製造をはじめたということである。
表9−27
明治34年赤ビール価格比較表
年次 札幌麦酒 函館麦酒
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
8円60銭
8.60
8.60
9.00
9.40
9.80
9.80
9.80
9.80
9.80
9.80
9.80
7円80銭
7.80
7.80
7.80
7.80
7.80
7.80
7.80
7.80
7.80
8.50
8.50
平均
9.40
7.92
注:4打1箱の価格である.
函館麦酒は建値8円50銭につき、割戻40銭を付けている。
明治34年『函館商業会議所年報』より引用.
表9−28 函館麦酒会社・札幌麦酒会社比較表
年次
函館麦酒
札幌麦酒
製造高
製造額
製造高
製造額
明治31
32
33
34
35
36
37
8,022打
10,870打
346石
403石
403石
400石
56石
7,938円
12,500
14,000
19,269
20,000
17,000
238
102,369打
225,226打


16,797石
20,449石
11,199石
235,219円
461,701
429,000
475,716
587,902
715,743
558,838
『北海道庁勧業年報』より作成

精米   P1100−P1101

 玄米の移入量は20年代では毎年20万石弱で、移入米の61.3パーセントであったが、30年代には10万石内外で、移入米の34.2パーセントを占めた。玄米の移入は季節的には、5月から9月までが多かったが、精米により玄米1石に付き、1割減の白米を得ることができた。精米の際生じた糠と粉米は精米所の所得となった。
 明治15年5月の「函館新聞」広告に、「玄米四斗に付 搗賃一二銭 鶴岡町蒸気米搗器械所 筒井栄吉」と掲載されているが、20年代には10数軒の精米所があった。原動力は蒸気機関で数馬力程度、職工数人が規模の大きい方であった。30年代になると、蒸気機関も10馬力以上で職工を10数人使用して、年間で1万石以上の精米をする器械所も現れている。38年には、8軒の精米所で約9万石の精米をして、その賃搗料は1万8000円であった。主として米穀商が精米所を営んでいた。

晒餡・片栗粉   P1101

 大豆とならんで小豆が函館港より本州府県へ移出されているが、この北海小豆から生餡をつくり、さらに精粉した晒餡は菓子原料や即席汁粉用に使用された。この晒餡を明治16年に中川庄太郎がはじめて製造した。八雲軒と称したが、18年に小菅彦助がこれを譲り受け、子の小菅彦太郎が20年1月より盛餡社の名で営業を続けた。晒餡は貯蔵には便利であるが、日向臭といわれる悪臭を伴った。彦太郎は製法に改良を加え、小豆固有の風味をもたせることに成功したので、20年代には区内はもちろん、東京、横浜、大阪など本州各地に移出されるに至った。小菅のほかにも1、2の業者がおり、製造額は6000円をこえ、函館の一物産としての地位を築くものとなった。38年、盛餡社は10馬力の蒸気機関を備え職工4人で、使用原料は700石であった。20年代には小樽や大阪に晒餡業者がいたが、小豆に雑豆を混じており、北海小豆のみを原料とする盛餡社が最も著名であった。
 このほか、農家の副業として馬鈴薯の澱粉(片栗粉)の製造があり、38年では、20軒内外で6000余円の製造額であった。

罐詰   P1101−P1102

 明治30年5月に、地蔵町の佐々木定吉が罐詰製造をはじめたが、その製造額は34年で1166円であった。ところが日露戦争の勃発による陸軍糧抹敞納入品生産のために、37年に2工場が新設されることになる。種田徳之丞と水嶋燐太(日本漁猟株式会社)の工場である。水嶋は27年、エトロフ島で罐詰製造の経験があったが、仲町の元木工場と精米所の建物、機械(20馬力1基)を利用し、男子職工31人と女子日雇を使用して、鮪、鰤の罐詰を生産した。種田は真砂町で生産合資会社の建物、機械(9馬力1基)を借受けて、男子職工11人、女子数十人を使用して、昆布と身欠鰊の罐詰を製造した。両者の製造額は37年が約9万円、38年が12万8000円で、それまで北海道で首位を占めていた根室国の製造額を上回った。しかし、軍需品としての一時的な需要であり、平和克服後は、工場の縮小あるいは休業が予期されるものであった。もっとも、水嶋は戦地で中国人が罐詰を食用とすることが、将来の需要開拓につながると考えて着業したようである。
 食品工業の各業種の工場数と製造価額の推移を表9−29で示した。
表9−29 食品工業の推移
年次
刻昆布
清酒
醤油
味噌
精米
晒餡
馬鈴薯澱粉
缶詰
明治29

30

31

32

33

34

35

36

37

38





32,891

37,175

1,484

16,277
7
36,120
5
24,460
5
16,266
9
48,800








17
165,344
14
183,757
14
177,500
11
180,700
11
192,805
11
194,046








8
115,440
13
121,212
13
61,489
12
73,520
10
92,093
7
42,754


















5
62,541


















8
17,990
2
2,844
4
9,070
3
5,942
1
6,000
2
6,890
1
9,000
3
6,000
2
6,600
1
5,182
1
6,426




35
9,333


57
18,937
24
13,433
36
27,499
57
46,552
58
32,270
52
18,918










1
1,166



292
2
89,109
2
128,055
『北海道庁統計書』ならびに『北海道庁勧業年報』より作成.亀田村を含む
上段は工場数、下段は製造価額(円)、麦酒は1工場のみであるから表9−28を参照
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