通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立
第2節 諸工業の発展
1 函館船渠会社の成立

創業総会までの経歴

創業総会の議事

創業時の経営

函館の経営者

創業時の経営   P1081

 船渠会社は毎年6月、12月の終わりに諸勘定を決算し、事業報告書(以下では報告書と略す)等を作成して株主総会に提出しているので、この報告書(但し明治37年下期、38年上期を欠く)に基づき、創業時の経営を総括したのが表9−19・20・21である。これにより年次別に経営状況をみよう。
表9−19 処務要項
年次
株式
総会
株主数
役員
支配人・技師長
官庁
銀行
庶務・会計
払込
資本額
配当率
明治
29
 
205
取締役社長に園田実徳
取締役理事に阿部興人就任
監督技師に逵村容吉を雇聘     本社事務所を大町5番地に出張所を東京市京橋区三十間堀におく
30
第1回

第2回
205

266
  隔山利四郎支配人に就任 会社営業登記    
300,000

300,000


5.0
31
第3回

第4回
268

273


専務取締役に平田文右衛門就任、社長空席
  船渠及び造船所予定地水面引渡願許可 取引銀行は百十三銀行及び函館銀行
東京出張所では第一銀行、帝国商業銀行
 
300,000

420,000
5.0

3.7
32
第5回


第6回
270


275
        本社弁天町1番地、旧砲台地先埋立地に移転
420,000


600,000

5.0


3.6

33
第7回

第8回
270

268
    修船台用地に使用の公有水面使用願許可    
718,975

838,450


34
第9回

第10回
282

285

平田文右衛門専務取締役辞任、死亡
園田実徳専務取締役に就任


大村励支配人に就
修船台工事竣工落成届提出
会社前公有水面使用許可
敷地埋立部分成工許可
   
951,925

959,550
3.0

3.0
35
第11回


第12回
300


306
    敷地土地台帳に登録
構内に巡査2名配置許可
海軍工務監石黒五十二工事視察
敷地を抵当として、勧業銀行より8万円借入
安田銀行より工事費に充用のため60万円借入
会社所在地番地変更、弁天町88番地となる
諸勘定科目より修船台及び工事仮出金に振替整理
1,159,430


1,195,050



36
第13回

第14回
320

332
取締役渋沢栄一辞任
監査役田中市太郎辞任
取締役に浅田正文、岡本忠蔵、監査役に田中太七郎、松下熊槌就任


技師品川久太郎技師長に昇格
船渠排水ポソプ落成
普察署検査
建物保存登記終わる
安田銀行のため抵当権設定 職制、分課規程施行、各係員を任命
工事仮出金を船渠、修船台土地、建物に振替
1,196,975

1,200,000


4.0
37
第15回

第16回
332

334
取締役大倉喜八郎、浅田正文辞任 大村励支配人辞任

山口武彦支配人に就任
大湊水雷団本社建物を利用    
1,200,000

1.200,000


38
第17回

第18回
334

341
    新埋立地修船台新設許可    
1,200,000

1,200,000


各年『事業報告書』より作成、項目中の数字の上段は上期、下段は下期である。
表9−20 工事概況
年次
浚渫
船渠
修船台
埋立
工場
その他
有形固定資産・
工事仮出金
財産目録
合計額
明治
29
      弁天砲台周囲埋立    
(年末) 千円
(年末)
千円
30
入渠船引入口浚渫機材購入 船巣・ポンプ・諸工場配置図・工事仕様書・工事予算書完成     建物
機械器具
工事仮出金
18
55
52
1,226
    土砂積船4隻落成
31
海岸浚渫許可
船渠前面758坪掘取る
船渠締切工事を会社直営で起工
同上大倉土木租に請負わす
  浚渫の土砂を埋立に使用     建物
本社機械器具
分工場機械器具
工事仮出金
22
58
59
87
1,230
32
浚渫土砂数2,629坪
同上     2,227坪
締切工事落成
被覆工事竣工
船渠掘さく工事を藤原正に請負わす
会社自営杭打工事開始
修船台用機械大倉組より購入
地盤に達するもの
     1,.070坪
同上  3,428坪
    建物
本社機械器具
分工場機械器具
工事仮出金
24
60
61
145
1,235
33
浚渫土砂2,593坪
浚渫坪数2,317坪
船渠既定設計を変更
掘さく工事竣工
渠底基礎杭打工手開始
枕木堅桁取付地堅め工事了る
修船台用陸上汽材汽缶設置出願
500坪を残す外落成
海岸石垣場基礎竪め了る
材料倉庫建設   建物
本社機械器具
分工場機械器具
工事仮出金
28
132
62
370
1,234
34
修船台引入ロの浚渫終る 渠底基礎混擬土工手及仰拱工事を千葉達平に請負わす
同上工事竣工
渠身の深さ1/2以上木柵とするに決議
修船台竣工
一部の開業式
護岸の一部を除き竣工
埋立地竣工部分を検査実測
修船台用工場
船員詰所落成
  建物
修船台
機械器具
工事仮出金
32
60
230
488
1,307
35
付属工場前海面浚渫許可
入渠船航路浮標許可
浚渫土砂463坪
船渠平敷下コソクリー ト敷設、渠身ブロッ ク据付工事竣工
船渠排水ポンプ据付許可
船渠工事大体落成
  山背泊、寒川、上磯の海浜砂利採取許可     地所
建物
修船台
機械器具
工事仮出金
58
32
143
173
890
1.455
36
浚渫坪数2,046坪 入渠船用浮標設置許可
戸船を渠口に据付
ポンプ排水、戸船浮沈の試験終る
船渠竣工
仮の開業式
  隣接地海面4,582坪埋立を出願
船渠側面護岸工事終る
寒川落石採取方出願
倶楽部、船員賄所、文庫、玄関、応接所、湯呑所、鍛冶場、製図室 、船具場、銅工場、倉庫、製缶場、鋳物場、 木型場建築終る 原動機室用陸上汽機、汽缶設置許可 船渠
修船台
地所
建物
機械器具
1,031
183
77
104
190
1,980
37
      敷地200坪埋立 製缶場、石炭置場、道具置場、技師詰所修築
年末工場従業員261名
2トン起重機据付 船渠
修船台
地所
建物
機械器具
埋立工事費
1,037
184
80
107
196
41
1,930
38
      埋立工事落成3,823坪 (修船台用878坪) 年末工場従業員651名   船渠
修船台
地所
建物
機械器具
埋立工事費
1,037
184
80
110
215
114
1,993
各年『事業報告書』より作成
表9−21 営業概況
年次
分工場
入渠船
上架船
新造船
陸上工事
収入
支出
純益金
明治30
買収に決議
買収価格(107,081円)議決
山尾福三を分工場場長に任ず
拡張資金39千円決議
  4隻


4隻

小形船機関2台

蒸汽錨巻器1台



103,786



81,752



22,033
31
職工雇人38名解雇66名/期末195名
職工雇入28名解雇45名/期末180名
  6隻
9隻
2隻 舶用汽缶2個
小型船汽機1台
74,249
59,264
63,214
49,963
11,035
9,300
32
職工雇入78名解雇81名/期末177名
職工雇入16名解雇24名/期末169名
  5隻
3隻
2隻  
59,883
46,434
45,806
37,932
14,077
8,502
33
職工雇入71名解雇66名/期末174名


職工雇入40名解雇50名/期末164名
  6隻

8隻
1隻

3隻
陸上汽機1台
汽缶1個
硫黄釜1個
本社修船台工事
48,381

65,340
46,860

54,762
1,522

10,578
34
職工雇入128名解雇74名/期末218名
分工場を廃止し本社に移転する迄、附属工場として営業
職工雇入78名解雇78名/期末218名
  20隻

22隻 (6,496トン)
  浚渫用グラブ2
砕石機2
81,298

77,121
62,385

64,336
18,913

12,785
35
職工雇入113名解雇62名/期末269名
職工雇入91名解雇129名/期末231名
  27隻(7,978トン)
21隻(5,372トン)
他に大湊水雷団工事
2隻 本社船渠用汽缶
船渠戸船・排水ポンプ
組立/北海道鉄道部工事
96,779
78,022
81,612
74,918
15,168
3,104
36
職工雇入130名解雇87名/期末274名
職工期末373名/附属工場を本社に合併し同所を社員詰所とす

7隻
(7,910トン)
26隻(9,697トン)
23隻(16,294トン)
他に海軍艦艇工事
1隻 北海道鉄道部社用品工事
橋桁・ポイントクロッシ ング・転車台・排雪器
104,890
155,636
94,967
125,643
9,922
29,993
37
社員詰所は小型船の新造修理をなす 11隻
(6,063トン)
7隻
(8,307トン)
29隻(6,239トン)

25隻(4,471トン)
他に海軍艦艇工事
1隻 同上陸上工車続行/船舶汽缶/陸用汽磯汽缶
病院暖房器/発動機
汽缶据付
129,366

75,190
144,463

122,748
△15,098

△47,558
38
社員詰所廃止 13隻
(11,486トン)
11隻
(23,368トン)
36隻(6,758トン)

26隻(7,874トン)
他に海軍艦艇工事
1隻

1隻(129トン)
同上工事続行
151,840

257,384
186,050

283,211
△34,210

△25,827
各年『事業報告書』より作成
項目中の数字の上段は上期、下段は下期である。収入、支出、純益金は円以下を四捨五入のため一致しないことがある。

30年   P1081

 30年の3月には、船渠をはじめとする工事の仕様書・予算書が逵邑技師により完成する。真砂町に所在の函館造船所の買収は渡辺熊四郎の同意が簡単には得られなかったが、7月には敷地は賃借、工場および諸器械は1月調べの財産簿の価額で買入れることに決定し、物件の授受および従業員の引継・雇入が実行された。36年に本社に移転するまでの期間は、分工場(本社の修船台竣工後は付属工場)と称されて、会社収入の大半を担っている。

31年より   P1081−P1082


乾船渠海中締切工事 『函館船渠株式会社四十年史』より
 31年から諸工事が本格的に始まるが、その前に船渠ならびに造船所予定地を水面のまま、引渡を請う願書が区長へ提出された。28年の函館区長命令書によると、予定地は「埋立成工シ、船渠会社成立ノ上」譲渡されることになっていたが、字句通り船渠予定地を区が埋立した後に引渡を受けるとすれば、そこを更に掘さくするため工事が二重となり、莫大な工費を徒消することになるから、水面のまま、引渡してほしいと出願したのである。招集された臨時区会では原案賛成の船渠派と反対派とが対立して、議事は紛糾したが可決され、4月に水面のまま引渡の許可指令書を受取ることができた。そして、区がすでに施行した箇所の工費は、函館港改良工事費の決算が終わってから、実費および利子相当の金額(後に、2万3229円を5か年賦分納した)を納付することで解決した。このように、船渠会社は「限りある港湾内に地点を占むる関係上、地方行政当局との間に面倒な問題に遭遇した事もあったであろう」(『函館船渠株式会社四十年史』)との回顧談のようなことは間々あり、それが工事の遅延をもたらし、物価騰貴と重なって工費の増大につながった。
 31年8月には、平田文右衛門が専務取締役に就任し、社長は空席のまま、平田専務が経営を執行する体制をとった。

修船台工事   P1082−P1086

 建設工事は浚渫・埋立工事が先行して、修船台・船渠工事が進渉(表9−20参照)するが、1000トンの船舶を曳揚できる修船台工事は32年より開始され、15か月間の工期予定はやや遅れたが、34年1月に落成した。4月12日、室蘭・青森間定期船(郵船会社)の陸奥丸(911トン)が定期検査で上架した機会に一部の開業式が挙行された。4月7日付の「北海道毎日新聞」には

船渠会社の引揚船渠は過般落成したるを以て、爾来三隻の汽船を引揚げ修繕したるところ……結果最も宜しき由なるが、右修繕の申込は仲々多く今日にては当港其他の汽帆船にして小なるものは、わざわざ東京、横須賀等各地に運航するを要せず、同船渠に於て修繕することを得るに至れり、尤も大船渠の落成も遠からざる内にありとのことなれば、却って他地方より当港に修繕のため来航する者多きを加ふるに至るべしと

とあるが、前掲の表9−21にみる通り34年以降上架船は増加している。

乾船渠工事   P1086


函館船渠株式会社の乾ドック工事 『函館船渠株式会社四十年史』より
 さて、船渠に関する重大な設計変更が33年にあった。その第一は「既定設計ニ係ル船渠築造用材料ヲ将来ノ保存ト工事ノ難易ヲ査覈シ、渠口枢要ノ箇所ノミ石材ヲ用ヒ、其他ハ石材代用トシテセメント混擬土ブルックヲ使用スルコトニ変更ス、本変更ニヨリ工費ヲ減ズルコト十八万二千余円ノ見込ナリ」。第二は「既定船渠容積ハ大約六千トン迄ノ船舶ヲ入渠セシムル設計ノ処、輓近大形船舶ヲ使用セル趨勢トナレリ、由テ将来ヲ考慮シ種々調査ノ末、大約壱万トン迄ノ船舶ヲ入渠シ得ベキ設計ニ変更セリ、蓋シ斯ク設計ヲ変更セシモ費用ハ僅ニ壱万四千百九十余円ヲ増スノミ」(『第八回報告』)である。
 一万トンの船渠築造は素志なのであるが、「船渠掘さく工事ハ春来、人夫払底ノ為メ非常ノ困難ヲ来セリ」(同前)とあるように、人夫賃およびセメントの値上がりが激しく、「船渠ハ渠口其他ノ要部ヲ石造トシ、渠舟平敷等ハブロックヲ以テ築造ノ設計ナリシモ、船渠拡張等ノタメ工事費欠乏ヲ来セシニ依リ、渠身ノ大部ニ於テ深サ凡弐分ノ壱ノ上部ヲ当分木柵トナスコトニ七月廿四日ノ重役会議ニ於テ決議セリ」(『第十一回報告』)と深刻化して来る。

借入金の調達   P1086−P1087

 工事費不足解決のため、35年日本勧業銀行より会社敷地を抵当に20万円の借入交渉をするが、8万円の融資を得ることしかできず、しかも工程の予算案を精査したところ、担任技師の違算あるいは脱漏に基づく資金不足が23万余円あることが発見(『郷土読本 函館ドック五十年の回顧』)されたといわれている。平田専務は病により専務を辞任(34年10十月)し、既に没しているので、園田専務をはじめとする経営陣は善後策樹立のため、35年5月、海軍省に船渠工事視察のための技師派遣を出願した。6月13日、石黒工務監が来観し、整理案の提示がなされた。それによると、最初の予算に無理のあった事、規模の拡張のため予算の拡張を来さざるを得ざる事、また工事遷延のため費用の増加を来した事等を認めるとともに、この際費用の節約を図り、姑息な工事をして、憂を将来に残してはいけないという内容であった。7月の臨時総会で借入または増資により60万円を調達することが決議され、10月の取締役会では、石黒工務監の査定を得た次の案が選択された。「船渠及ビ護岸ヲ完成シ、附属工場ヲ移転シ、五千トン以下ノ船艦ヲ修理ニ必要ナル諸機械ノ設備ヲナシ営業スルモノ、今後支出スベキ経費不足額約四五万円」。しかし、この資金調達は難航し、結局安田銀行より、船渠完成を条件として、会社の動産、不動産担保、金利年1割、37年12月末返済とする60万円の借入が12月に実行された。かくて、さきに木柵に変更した船渠上半部をブロックに復すること、工場敷地狭隘でさらに埋立をすることが決議され、ともかく、35年末には多少の設計変更をして、1万トンの船艦が入渠可能の船渠が大体において落成したのである。
 なお、35年、上、下期ともに、工事費予算不足を理由とする役員の引責辞任の申出があったが、株主の希望により重任している。
 35年末には、帳簿の振替整理があり、修船台の勘定科目が設定されるが、この金額と工事仮出金を合計すると既に100万円をこえる。有形固定資産額の合計は、払込が完了した120万円の資本金を上回る額となった。

仮の開業式   P1087−P1089


船渠仮開業式 『函館船渠株式会社四十年史』より
 安田銀行の融資により船渠は竣工し、付属工場の移転・修築もかなり進行した36年7月28日、仮開業式が挙行された。公私関係の招待来会者440名と第15回報告書に記載されているが、その模様を新聞記事より拾ってみよう。

正面より入れば、直に今回落成せるドライ船渠あり、恰も肥後丸(郵船会社社船)の入渠中なりしが、千四百余トンの大船も此処に入りては亳も其大を感ぜず、実に一万頓を容るに足るべき大船渠なりけり……監督技師の事業報告あり次で園田社長の祝辞朗読ありしが、氏の音吐は朗々として少しく薩音を帯び能く場に徹す……
                                              (七月二十九日付「函館公論」)

薩摩(鹿児島県)出身の園田専務の式辞の中には次のような箇所がある。

当初三千頓内外の艦船を容るるの設計なりしが、爾来世運の進歩は斯の如き小規模に安んずるを許さず、更に進んで一万頓以上の船艦の修理及建造に適する設計となし……
                                             (七月三十一日「北海タイムス」)

 さらに、7月22日付の「函館公論」は、「本工事の着手は明治三十一年六月二十日にして、同三十六年七月二十日を以て竣工せり、其間実に五ヵ年を経過せり、是れ一は海中の施設により埋築のため時日を要せしに因ると雖も、亦た毎年十一月より翌年三月まで約半ヵ年は冬期沍寒の候に属し、コンクリート工事の施設に便ならざりしに由るなり」と工事が遷延した理由にもふれている。
 仮開業式の翌日、渋沢は取締約を辞任し相談役となっている。役員は前掲表9−19のように改選された。
 36年期末の帳簿には、船渠103万円、修船台18万円と計上されるが、前掲表9−16(創業総会までの経歴)の船渠・船架・造船台の目論見価額約56万円の2倍に相当する。後に本州他同業者の船渠に比して著しく高価に過ぎると指摘(『船渠会社四十年史』)されている。また、有形固定資産額は160万円に達して、優に資本金をこえる。財産目録合計額は借入金による資産調達があって、200万円になんなんとする状況である。12月28日には、職制ならびに分課規程が施行せられ、各係員の任命があり、会社の組織は整ってきた。

37、8年   P1089−P1090

 船渠の設備が完成した矢先、37年には日露戦役が勃発した。船舶は多数軍用船に徴発されたため、船舶の入渠・修理は激減し、期待された大船渠の築造による業績の進展はみられなかった。前掲表9−17(創業総会までの経歴)の予算収入63万円には到底及ばず、営業成績は前掲表9−21の通り、37年は欠損、38年は戦争も終結して収入は約41万と増加したが、依然欠損が続き、38年末の累積損失は8万3429円となった。安田銀行からの借入金60万円は返済期限を延期はしたものの、38年10月には返済不可能ならば差押えるという厳しい督促があり、経営の危機は極限に達した。こうした窮況に至った原因を第19回の総会(39年1月)において、株主の梅浦精一(元石川島造船所専務)は次のように発言している。

昨年十月小生出函ノ際、親シク目撃スル処ヲ以テセバ…安田銀行其他ヨリ不尠借入金ヲナシ、多大ノ利子ヲ払フノミナラズ、運転資金無キタメ当会社ノ如ク不便ノ地位ニアリナガラ材料ノ貯蔵品甚ダ少ナク、且ツ大工事ヲ請負ヒ遠隔ノ地方ヨリ職工ヲ傭入シ、工事終レバ直チニ之ヲ解傭シ、到底充分職工ヲ養成スル能ハザル状態ナリ…如此借金制度ヲ以テ経営シ、少額ノ材料等ニテハ到底顧客ニ満足ヲ与ヘ、充分ナル利益ヲ挙ゲル能ハザルハ論ヲ俟タザルベシ
                                                 (「第十九回事業報告書」)

 39年1月早々より、善後策を求めるべく、さきに相談役を辞任した渋沢は再び整理委員にあげられ、近藤廉平、大倉喜八郎、加藤正義、浅野総一郎等の整理委員とともに、函館より上京した役員を加えて会合を重ねた。そして、前に横浜船渠の社長であった男爵川田龍吉に再建を託することになる。この間の事情を渋沢は明治42年の『実業の世界』(第6巻第7号)で次のように述べている。

川田龍吉が、是には大分苦しんでいる。併し性来厳格な人であるから細々ながらも維持ができるであらふと思う。全体函館に彼のやうな大船渠を作ったのが抑もの誤であった。あれは余り社会の趨勢を想像し過ぎた結果で、今になってはどうとも致し方がない。若し細々ながらも維持して行く間に、当初想像した如く社会が趨いたら、其時こそ此の会社が全盛期に入る時である。

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