通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


「函館市史」トップ(総目次)

第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立
第1節 諸工業のはじまり
1 官営工業の創出

開拓使の政策

函館製革所とお雇い外国人

燧木製造所と囚人玉林治右衛門

その他の官営工業

その他の官営工業   P1037

 以上の官営工業については前者はケプロンの構想のうちにあったもの、後者は1個人の発想から偶然実現したものであったが、以下函館支庁管内のその他の諸工場の概況を述べよう。

石灰製造所   P1037−P1038

 明治5年鍛冶村字湯ノ沢において石灰の原石が発見され、これを採掘したところ品質が優良であると認められ、勧業課所管のもとで同年石灰製造所が建設された。この地は後に上湯川村番外地(現在の滝沢町)に編入されているが同所の概要は敷地7万8379坪であり、職工場や鍛冶小屋などの施設が75坪であった。同10月に製品化に成功したので、函館支庁は同月九9日に市中へ「今般石灰製造方御取開相成最上ノ品出来候ニ付右引請売捌ノ者ハ願出ヘシ」(『布類』上編)と布達を出している。以後年々製造高を増し8年度では2万7000俵、翌9年度では1万3000俵の生産をみた。ちなみに明治10年当初は玉木篤(等外2等出仕)、箱石東馬(准等外吏御用掛)、続豊太郎(雇、同人は続豊治の孫にあたる)の3名が製造所の掛りであった(明治10年「函館庁員分課誌」)。
 10年3月には2万6000俵の石灰を入札売却する旨の達しが出されている(明治10年「御用留」)。販売については機会のあるごとに入札の通知が管下になされた。しかし8年度の製造分は大半が売却されているが、9年分は売れ残りが多く、『開拓使事業報告』はその原因として製品の精度が低いことをあげている。そこで製法改良に取り組み、10年には精度を高め、また価格も廉価にして販売しようとしたが、需要が開かれず貯蔵高も増加してきた。そのため10年7月に製造高を減少する方針を固め、もっぱら在庫の販売に精力を傾けたが、売れゆきはおもわしくなく、11年には製造を中止した。翌11年6月に上等が1俵20銭、下等が8銭と石灰払い下げの公告が「函館新聞」に掲載されているのは在庫処分のためであろう。14年には開進社に貸与した。

煉瓦石・屋根瓦製造所   P1038−P1039

 明治5年茂辺地村近傍で煉瓦や瓦に適した粘土を採取し、戸切地村の砂と合わせて試みに製造したところ実用に適するとなり、同村番外地3000坪(後に3500坪)の敷地に製造所を建築し、煉瓦などの製造を開始した。もっとも同地では文久年間(1861〜1863)に美濃の陶工により煉瓦、瓦の製造が試みられているので、窯業適地として注目されていたわけである。明治6年に開拓使が豊川町に同所製造の煉瓦を利用して常備倉4棟を建築した。ところがその年に煉瓦壁の凍害のため工事途中で解体し、再築するという事故にみまわれ全体の完成は8年まで持ち越された。この間製造方法が改良され初期のものより精製されたものとなった。明治8年度の製造高は38万本余、そのうち19万本が官用と民用の需要に当てられた。また瓦も4万枚が生産された。しかし当時は輸出の道がなく、また経費から価格を算出すると高価なものとなり、需要増加も期待できず、9年には一時生産を中止した。
 ところが11年に東京で開拓使の物産売捌所を建築することになり、生産を再開することにして、8万本を東京に送った。これに対して同所の設計者のコンドルは粗悪品であると指摘したが、黒田長官の指令により使用された。再開後の11年末ころから道内でも煉瓦使用が顕著となり、さらに11、12年の函館大火により開拓使が不燃建築の奨励もしたため函館市中の利用もみられた。そこで函館支庁としても増産計画を立てたが、資金面などの問題を処理できず、計画は中止となり、14年1月茂辺地村村民の森兵五郎に貸与した。同所の煉瓦を利用して建築された建物として官用では函館警察署、燧木製造所、函館郵便局、函館支庁書庫(現存)など、また民間の建築物では金森洋物店(現郷土資料館)、魁文社、平田文右衛門店舗などがあげられる(遠藤明久「開拓使茂辺地煉瓦石製造所」『日本建築学会論文報告集』)。

その他の製造所   P1039

 この他に七飯の勧業試験場内に製紙場(明治4年・美濃紙、半紙、塵紙などを製造)、水車場(明治10年・主に製粉、精米)、製煉所(明治6年・粉乳、乳酪など試製)などを設置している。また明治10年には臼尻村に官吏を派遣し、村民を雇用して鱈肝油を試製させた。同年3月に内国勧業博覧会に出品するかたわら内務省衛生局に送りその指導を仰いでいる。製品改良に努め外国品に匹敵するとの評価を受けたが、原料の一定供給が得られず事業の拡張にふみこむことができなかった。12年に作業費条例による資本を得て原料の確保のために範囲を拡大し、さらに13年になり臼尻など4か所に製造所を新設した。しかし、原料の入手難が依然として続き収支欠損となり15年に地元村民に分貸した。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第2巻第4編目次 | 前へ | 次へ