![]() 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立 燧木製造所と囚人玉林治右衛門 |
燧木製造所と囚人玉林治右衛門 P1032−P1034 明治の初期はマッチは輸入品として貴重品扱いをされていた。元加賀藩士の清水誠は明治6年文部省の留学生として、フランスの工芸大学に派遣され諸技術の習得に努め、翌7年10月に帰国した。その後東京で黄燐マッチの製造に取り組み、9年には東京本所で新燧社を設立しマッチ製造の営業を始めた。これが日本人によるマッチ製造の始まりとされている(石井研堂『増訂明治事物起源』)。清水がヨーロッパの確かな知識、技術の裏付けによってマッチの製品化に成功したのと対照的に、同じころ函館においてまったくの独学で、なおかつ囚人が同様の試みをして開拓使の官営事業として開業までこぎつけた事例がある。東川町の懲役場で服役中の玉林治右衛門は模範囚として服役し、総囚取締を命じられたが、獄中で勉学の念を起こし洋書を借り受けて北海道に適する事業を模索した。その結果道内は動物資源が豊富であり、燐製造を試み、これをもってマッチ製造に着手することを思いついた。 玉林は開港期に来函して物産商を営んでいた。玉集丸など和船3艘を所有し産地からの昆布を集荷をしたり、函館在留の外国商人へ売却するなどの営業にあたっていた。しかし明治5年にハウルなどとの取引で数万円の借財を作り、逃亡していたが、6年4月に捕縛されて身代限りとなった。同人の財産を公売に付して債権者に応分に支払ったが、それでも不足していた。このため身代を持ち直した後に不足分をとりたてることにしたところ、外国人との取り引きで所持の手船を二重に引当として売却するという事件を引き起こした。このため7年4月に詐欺罪で懲役10年の刑に処せられた(「開公」5595)。 玉林は元伊予の大洲藩士で16歳のとき江戸で杉田玄端の門下生となり蘭学を修めたが、同門に大鳥圭介や肥田浜五郎がいた。また長崎で村田蔵六につき砲術を学び、その後同郷の武田斐三郎の北海道行きを知り玉林も来函した(13年12月24日「函新」)。若い時に身につけた学問が逆境の時の玉林自身を助けたということになろう。 入獄して事業に成功するまでの過程は13年10月9日から同年12月24日までの「函館新聞」に「玉林治右衛門事蹟」と題して8回にわたり連載されている。その新聞記事によってみてみよう。獄中にあった玉林は前非を悔いて官吏に洋書数冊を請い、これらの書から北海道に適した事業を研究しはじめた。そのなかで燐製造のことが目にとまり、北海道は動植物が豊富であるので獣骨で燐を製造し、これをもってマッチを製造すれば輸入品を防ぐことができ、また事業を拡大すれば無産の貧民を就業させることができ、開拓の趣旨にも適合するということから試みることになった。玉林はその旨を願い出るとただちに許可されて、まずマッチの軸頭に用いる燐を製造するための燃料や試験材料を受けて服役のあいまに、場内の片隅の古い小屋で試験を始めた。数度の失敗を経て7年8月に燐結晶の製造に成功した。次いでマッチ製造にとりかかろうとしたが、その製法を知らないため支庁の外事課や函館病院の製薬分析の洋書を借用したが、いずれも参考にならず、自己流で薬材を試みたところ8年9月にようやく燐製マッチを製し、製品検査を願い出た。これが第1回目のことであった。しかし、この試製品は旧製造法にもとづき危険で、かつ臭気が人体に害があるということで却下された。その後薬品の爆発による火傷を負ったり、また9年の春には過労のために作業を中止するまでにおいこまれて困難に面していた。しかし新燧社の活況の報が伝わるや玉林は奮起して、同年7月に硫黄の下付を願い出て、同時にドイツ製のマッチを与えられたので、その頭薬の分析をした。玉林の奮闘ぶりに掛員も当初は好意的であったものの、さすがに度がすぎると映ったようである。しかし玉林のひたすらの熱心さに根負けしたのか、ついに積極的な支援をすることになった。 軸木部分の改良を計画した玉林に木質検査のために湯川近傍への調査を許可するほどであった。この調査結果、白楊を原料とするのが適当であることを発見した。軸木を白楊として製造し提出したが、軸木については評価されたものの依然臭気が強く却下された。このころ札幌本庁から物産局の石橋俊勝1等属が来函したので、赤酸化燐の製法を学んだ。10年8月に再び試製品を作り実用可能のところまでこぎつけることができた。それは玉林が事業に着手してから3年余、8度目の試製品であった。函館支庁ではこの製品を需要に適すると判断し札幌や東京その他の地方に送り、また東京の新燧社へも見本を送り品評を請うたところ、同社は最良品であると評価した。ここにおいて若干の器械を購入して、試験製造に取りかかった。11年3月函館支庁は元松前藩士族3名を採用して玉林へ伝習することを命じた。 事業の拡大 P1034−P1035 11年8月黒田長官の来函にさいし、長官はマッチ製造の現場を視察した。そこで同月21日函館支庁の時任為基権大書記官は黒田に対し、マッチ製造所新設の伺い書を提出した。当地懲役場ニ於テ兼テ製造試験致候マッチ製造ノ儀、追々煉磨致シ良好品製出ノ見込ニ有之候間、今後盛大ニ着手相成候様致シ度、就テハ将来全道一般ノ貧民等ヲ使役シ業ヲ盛大ニ期セシムルノ目的ニテ、先以当地ニ於テ製造場ヲ一ヶ所ヲ設ケ当地貧民婦女子ノ別ナク之ヲ使役シ到底無産ノ民ヲシテ産ニ就カシムルヲ主意トシ、傍ラ懲役人ヲモ使役シ大凡一日百三十名ノ職工ヲ使用ノ見込候… 概算調書の見込を見ると開業時の建築費・器械購入費は3424円、初年度支出は給料・資材費等で1万3911円、収入は1万5120円、利益1208円とみて、翌年度の支出は1万4011円、収入1万5210円、利益1108円という計算をしており、製造高は年に3万5000ダースとし、概算では3年で原価償却するとしている。 伺いに対して許可する旨の回答があったが、経費節減のために再調査を命じている。この時に原材料は道内産品で賄うことが可能なものについてはできるだけ使用することを命じているが、それは黒田長官の道内の産業振興の意向を受けたものであった。設置の許可を得た函館支庁は玉林に命じて起業のための諸入用品や製造場図面等を調製させた。 新築落成式 P1035−P1037
製造所の概要は3601坪の敷地に、工場、事務所、物置場、製薬場等の建築物が296坪余であった。工場の内部は10区画に仕切られて、木挽、函詰、仕上場等からなっていた。なお15年の『函館県統計表』では敷地は1万7000坪、工場は301坪、付属施設を含めて計580坪となっているので、その後拡幅したのであろう。製造用器械類の購入は東京新燧社の手配により一切を国産品でまかない、同社の青地基治を招聘して技術指導を受けた(「旧開拓使会計書類」6333・道文蔵)。軸木の原材料には道産の白楊樹などを用いた。 9月28日時任大書記官をはじめ開拓使官吏立ち会いのもと開業式を執行した。「函館新聞」(9月30日付)はこの時の開業式の様子を報道して「…時任君の祝詞を朗読し次に樋口佐久間君等続て祝詞を読了りて後時任君は製造者玉林治右衛門を近く呼れ囚中に在り能此業を為したる殊勝の段を賞し猶向来を奨励されて式全く終り…」と玉林をクローズアップして取り上げている。なおこの式にはかつて玉林と江戸で同学であった肥田浜五郎が臨席していることも報道している。開業当時の職工は前述した伝習生徒3人の他に区民85人、懲囚41人の計129人であった。さて官立燧木製造所として始められたこの事業はその後どう展開したであろうか。 同年11月には製造マッチ4ダースを新燧社に送付して品評を請うたところ、「…御製造ノ摺付木四ダース御下与被成下正ニ奉拝収則試験仕候処至極宣敷御出来ニ相成奉感佩候…」(前掲「旧開拓使会計書類」)と好評を得た。東京出張所では新燧社の評価を得たところから、同所をはじめ札幌本庁や根室支庁での官用に函館の燧木製造所製品を用いることを指示し、また管下の需要も同所製品を用いることを奨励するよう指示した。 燧木製造所の経費は開業間もなく作業費に組込まれたが、11年段階では年3万5000ダースの計画であったものが、開業時には1年間の製造高は88万ダース(1日に3000ダース)と積算している。おそらく函館支庁の見積りに対して東京出張所の指令で増産を指示されたのであろう。作業費とは各作業所別に独立採算制を取るもので資本金額を定め、利益金をもって投下資本を漸次償却するという仕組みであった。年間生産予定に対して当初は職工の技術が未熟で、製造器械も充分なものとはいえなかった。また経費の積算も未経験な段階で始めたため、販売高に対して原料の高騰や賃金の上昇などの経費増があり、支出をカバーできず年々在庫高も増加していった。その後製品改良や製造器械の拡充も行われたが、欠損額の補填が不可能であり、運転資本が回転しないという悪循環のため14年12月に廃止された。この間玉林は13年10月に減刑という恩赦があり、民事課雇として月俸30円を支給されて製造事業に取り組んだ。懲役囚から官吏へと特異な転身をとげたのであった。しかし製造所の閉鎖後の同人の足どりは不明である。 燧木製造所はこのように充分な成果をあげず廃止されたが、それは作業費に組み込まれ資金運転が充分でなかったことや、また販路が思うように開けなかったことなどによった。しかし明治の20年代に入るとこうしたマッチ製造の試みは形を変えて道央における軸木を本州の製造所に供給するという原料生産の工業へと結実していくのであった。 |
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