通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立
第1節 諸工業のはじまり
1 官営工業の創出

開拓使の政策

函館製革所とお雇い外国人

燧木製造所と囚人玉林治右衛門

その他の官営工業

函館製革所とお雇い外国人   P1027−P1029

 明治5年2月黒田次官は、ケプロンの進言に基づいて北海道開拓着業のために必要とする外国人技術者の雇用について政府に許可を求めた。そのなかに語学教師や汽船の船長、機関士、牧牛術などの技術者とともに皮師をあげている(「開日」)。開拓使は道内の豊富な皮革資源に着目し、外国人の製革技術者を雇用して、製革所を設立運営しようとしたのである。伺いが許可になると直ちに人選に入り、「お雇い皮師」としてアメリカ・ウィスコンシン州出身のマティアス・ウェルブ(Werve,M.)が採用された。この人選の経緯は不明であるが、他の「お雇い外国人」の場合はケプロンが人選の過程に大きく係わっている場合が多いことから、あるいは同じ事情によったのかもしれない。
 雇用契約は同年4月21日東京においてケプロン立ち会いのもとに榎本権判官との間で取りかわされた。採用期間は明治6年1月22日(陽暦3月1日)から2年間であった。月給125ドルに、別段手当てとして41.66ドルを支給することが取り決められた(「開公」5742)。技術者が決定したことで函館支庁は「函館製革所」の設立に取り組んだが、その開設の時期については諸説がある。『開拓使事業報告』によれば明治5年4月となっているが、明治5年「取裁録」(道文蔵)では10月設置としている。また明治15年の開拓使から北海道事業管理局への引継書類には5年7月とある(「各所校引継書類」『北海道事業管理局(工業)』上・北大蔵)。『開拓使事業報告』はウェルブの採用時を開所とみなしたのであろう。また「取裁録」の10月説は後述する「規則」の設定によったものであろう。製革所の運営はウェルブに一任されていたため、彼の函館赴任にあわせて開業の運びになったようである。函館赴任の時期は不明であるが、開業までの期間には機材類の購入や運営方法についてウェルブの指導のもとに進められたと思われる。
 いずれにしても5年中にウェルブの函館着任を待って東川町の徒罪場内に函館製革所が設立され、機材類の整備がされたと考えられる。当初は支庁の会計課の所管であった。5年10月に「製革場規則」と「製革生徒規則」を定めた。これらの規則は運営規則ではなく、前者は就業規則的なもの、後者は伝習生の募集や採用、あるいはその処遇等に関するものであった。草創期のためか函館支庁は皮革製品の製造にただちにとりかかるのではなく、ウェルブを製革の技術教師ととらえており、管下から修業者を募集して技術者を養成することにした。
 ウェルブは募集生のうちから中野才吉、篠田武治、中邨昌吉、宮崎秀次郎、保倉仁三郎の5名を推薦した。彼らは官給を受けて、製革所に付属する生徒として種々の製法を学ぶことになった。彼らとは別に懲役囚にも製造に従事させた。ウェルブの教授した製法は主材料を牛皮に求め、製靴用の表染、裏染および馬具等に用いる器械用の製革の3種であった。これらを教授しつつ製造された試製品は一部売りに出されたようであるが、その詳細は不明である。ウェルブは製法上に必要な材料を近隣に採取しつつ製法を伝授している。伝習生徒はのちに7名に増え、彼らの習得した方法については「牛皮製造方法」という演説筆記の記録として残されている(明治10年「報告書稿」道文蔵)。それによれば表染、裏染、馬具用の他に靴の底皮の技術も教授されている。6年9月函館支庁はウェルブの雇用期間の満期前に、当初予定されていた製法教授がいまだ不十分であるとして、7年の末ころまでの期間延長の伺いを東京出張所に提出した。同時にウェルブにも要請したところ倍額以上の給料を要求してきた。このため函館支庁はそうした要求は不当であるとして、またウェルブの教授ではこれ以上効果も上がらないだろうとまで言い切って雇用の継続は断念した。ウェルブは雇用期間は前に述べたように7年3月1日までであったが、本国到着までを採用期間に算入するという前例があったため、7年1月離函し、帰国の途についた。
 ウェルブが離函することになり、事業継続があやぶまれ、また将来的に採算可能かどうか東京出張所から問われた函館支庁では、6年12月に規則を更正した。それによれば伝習生の定員を現行の7名に限り、教師は当面伝習生のなかから熟達したものを充てることなどを定めている(「開公」5599)。また経営の見込みとしては施設、設備を充実させることで製造数も増すことができるとして、存立させるべく申し入れをしている。なお、指導者を失った製革所では、伝習生の1人である中野才吉が少々製法に通じていたため指導役となって製造にあたった。

清国人職工   P1029−P1030

 明治8年従来の靴や馬具用を使途とする製革の製法のみでは需要に限度があるとの判断から毛皮のなめし業も興した。同年5月西村貞陽は清国に視察にでかけたが、その際に張尚有と王直金の2名をなめし皮の職工として雇用することにした。1人月29円、半年間契約で採用されたが、両人は翌9年3月函館に着任した。彼らの手がけた毛皮のなめし製品は評判となり需要に応えたようである。半年の契約満了後、王は帰国したが、張はさらに契約を延長し、10年11月30日まで在函した。この間、9年3月「開拓使分局章程」の施行により、製革所は民事課勧業係の所管となり、さらに7月には懲役場(従来の徒罪場を改称)に所管替えとなった。そのため囚人中15、6名を選び、張に伝習するに命じたが、なめし皮工として来日したと主張したため、囚人を張に付けて使役させるにとどまった。なお明治10年1月の「函館庁員分課誌」によれば製革所修業人として中野才吉(月俸10円)、中村昌吉、保倉仁三郎、一ノ瀬忠一(以上同7円)、福井次郎、笹原忠寿(以上同5円)とある。張のなめし皮の製法については開拓使のお雇い外国人の黄宗祐が聞き取りして記録したものがあり、それには干皮と生皮の2種のなめし方が述べられている。張の帰国後は囚人のうち製法を少々会得したものがあり、なめし業を継続できた。
 この当時鹿皮を原料とするセームレールは需要も多かったが、大半は輸入ものであった。開拓使は、鹿皮の資源が北海道では豊富であるためそれに注目して10年11月曽根清(『殖民公報』第17号では清国人としているが、『札幌昔話』によれば静岡県人で馬具師とある)を採用して、囚人をつけてその製造に当たらせた。

商品化への道   P1030−P1032

 11年4月札幌製革所は器械の不備や職工の未熟なことから品質も悪く廃止され、7月に函館製革所へ合併された。この合併を機に、これまで製革所の出納事務などの体制に問題があったことから「製革所仮規則」を定め、懲役場管轄から再び民事課勧業係へ所管を変更した。この時に宇都宮才吉(旧姓中野、かつての伝習生で開拓使雇いとなっていた)は、札幌製革所から移ってきた製革職の一ノ瀬忠一とともに准1等雇いとなった。
 このころは函館市中にも東京などから靴職人や革細工職人などがやって来て市中の需要も高まってきていた。また毛皮のなめしを希望するものが増加してきた。11年3月2日の「函館新聞」には「当港の懲役場にて懲役人が製造する品が手袋…等にて何れも良く出来るよし。又先年中南京人を雇ひ諸獣皮の製造をも受け夏中と雖も虫の付かぬ製法の由彼の時計を包むセームレール皮も製造し…」とその様子を報道し、また同年8月20日付けでは来函したイギリスの女性探検家のバード(Bird,Isabella Lucy)がイギリス領事ユースデン夫妻と懲役場を訪問した際に「…製作物の精工なるを賞賛し同場にて製せし蝋燭又ハ製革抔を買求めしハ本国へ持帰へるとの事…」といったことも伝えている。こうした需要増に対応するため高砂町の民有地1936坪余を購入して、懲役場から製革所を移転することにした。9月に事務所と工場の建築に着工して、翌年7月に171坪の建物が落成した。この間製革所の製品7枚を東京の製靴業者へ送り品評を求めた。送付先の築地の西村・依田組合造靴場は開拓使へ靴製品を納入している業者であったが、11年5月12日付の同所支配人の函館あての書簡にはその品質は見劣りするものであり、この程度の製品であれば、予定の価格も東京市場のものより4、5割も割高であり、販路にも困難があろう、製造過程にもっと留意して作らせるべきである、という実に手厳しい評価であった。製革所製品の道外への販路を開こうとしていたものの、中央で通用するほどの製造はできなかった(明治11年「取裁録」道文蔵)。しかし、その後14年に開催された内国勧業博覧会には官の部で函館支庁中村昌吉他3名で表染靴用革やセーム皮、毛皮など8品、計15枚を出品して、褒状を受けている。これまでの製造の集大成ともいうべき出品であった。中村昌吉はかつての伝習生であるが、製品改良の努力が続けられたのであろう。
 一方函館における製革所の製造品の用途はどのようなものであったろうか。代表的な例として渡辺熊四郎の経営する金森製靴製造所での利用をあげることができる。12年10月海岸町で開催された農業博覧会に渡辺熊四郎は製革所の製革を用いて製造した長靴、ゴム付靴、短靴を出品して1等賞を受賞している(渡辺家「諸用留」)。またこの他に後に製革所の払い下げを受ける小川長之助らの毛皮業者も製革所製造品を利用して営業をしている。
 13年になると、これまで除毛革と毛皮なめしの2業できていたものを除毛革は生皮の供給が続かないこと、また製造が充分ではなく利益があがらないという理由からなめし業を主として行うことにした。要するに除毛革は原料である牛や馬の生皮を購入して製革して販売するため、在庫がかさみがちであるのに対して、なめし業は受注で行うためリスクもなかったからであった。この年の1月に作業条例が実施され製革所経費は作業費に編入されたが、純益を得ることができず、一般経費に戻した。
表9−1 製革所製造高・収支
年度
製造費
製造量
製造高
製造高内訳
製革
鞣革

明治10
11
12
13
14




2,208
2,215

538
1,023
2,393
2,711
2,759



1,475
1,623
1,963



515
779
1,110



930
943
1,396



1,878
1,932
1,649



544
680
566
『開拓使事業報告』第3編より作成、14年度は払い下げの14年3月まで.
製造高の計と内訳が一致しないのは、単位未満切り捨てのため
 製革所の10年度から閉鎖までの製造高や収支は表9−1のとおりであるが、相当量の扱いがあったものの、製造費に対して製造高(この場合は売上げ高を意味する)は伸びておらず収支は連年欠損続きであった。
 13年11月開拓使は工場払下概則に準拠して、製革所の払い下げを図った。しかし希望者がなく、翌年2月に入り地蔵町の製革業者である小川長之助と恵比須町の牛肉商小沼庄助が連名で出願してきたので、4月にとりあえず両者へ貸与されることになった。
 15年開拓使の廃止によって製革所は農商務省に移管されたが、引き続き貸与を認められた。翌16年農商務省は代価2108円で3か年賦で払い下げしたいという上請をして、17年1月に許可を得て処分した。しかし引き渡しの完了前に火災により建物は焼失したので、8月に敷地を払い下げた。小川は単独で同所に製革所を再建して経営することになった(『農商務卿第三、四回報告』)。
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