通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第8章  金融界の近代化と整備・発展
第2節 金融界の発展
3 道外資本系銀行の諸相

山田銀行の閉鎖

第三国立銀行の進出

安田銀行と硫黄鉱山経営

第二十銀行の活動

第二十銀行の活動   P1022−P1023

 前身の東京第二十銀行は明治10年7月11日開業免状を下付され、10年8月10日に東京において開業し、そのとき資本金は25万円であった。この銀行は国立銀行と称した時代よりすでに函館、小樽、根室(明治26年)、釧路に支店を設置した内地銀行として、三井銀行についで古い歴史を有していた。函館には明治18年5月に支店を設けたが、「函館新聞」(明治17年9月11日付)によれば「今度当地に同出張店を設けらるるに付同店主任江南哲夫氏が来函されし事は先日記載せしが、右は弥々仲浜町に於て開設されしに付昨夜当港の諸会社豪商を招請し会所町中村楼に於て盛なる祝莚を催されしなり」とあるように、支店より以前すなわち明治17年の9月ごろに出張店が開設されたようである(『明治財政史』第十四巻)。
 そもそもこの国立銀行は、元伊予宇和島の藩主の藩主伊達侯爵家の出資によるもので、当時伊達家はその財政の管理運営を渋沢栄一に委託していたので、本店を東京に、北海道に支店を設置したのも彼の意見によるものである。一は行務の発展を未開の地に求めたこと、一は本道の金融に貢献することでもって、「開拓の聖旨に副はんとしたことにあった」のである。士族主導型の大義名分であり、時代の雰囲気を感ずる。同国立銀行は明治30年7月満期継続で、株式会社第二十銀行として普通銀行となり、営業を続けた。その後本店が第一銀行(渋沢栄一の推進で設立)と大正元年9月20日に合併し、本道各地の支店は総て第一銀行に継承された。
 これまで公金預りについて問題点として取りあげたが、第二十国立銀行も実際考課状において明治26年から28年までの3か年の間、やはり本銀行でも見られる。いずれも道内の支店の扱のみである。取扱出張所は明治26年下半季の実際考課状で判明した2か所は次の通りである

函館支店 根室国根室本町4丁目3番地
小樽支店 石狩国札幌区南1条西2丁目9番地

 営業の特色は専ら為替および海産物、米穀担保貸付あるいは荷為替の取組みの業務に力を注いだ。当銀行では土地家屋を抵当としない。というのは、資本を固定化してしまうからである。

  明治27年1月現在 頭取 取締役
  姓名      身分  役名         住所                             
穂積重頴     士族  頭取         東京市神田区
佐々木慎思郎  平民  取締役兼支配人  東京市日本橋区
西園寺公毅   士族  取締役        東京市京橋区
桑折城方     士族   〃          東京市本所区
川杉義方     士族   〃          東京市浅草区

 これらの身分をみれば、取締役兼支配人という実務の責任者のみが平民であるが、他は全て士族である(明治26年下半季より二十八年下半季『第二十国立銀行半季実際考課状』、『北海道金融史』、「函館に於ける銀行沿革」大正11年2月25日『函毎』)。
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