通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第7章 近代海運の発達と北方の拠点港
第2節 三菱会社の北方進出
2 海運独占への道

道内航路への進出

東京商人と一手積特約

施設整備と為換業務の開始

青函航路の受託

寡占化の動き

東京商人と一手積特約   P873−P875

 前述したように三菱は函館進出とともに河村六二郎や佐藤半兵衛と特約を交わし、いわば代理店業務をさせたが、両者の貨客の獲得は実効があがらなかったようである。佐藤はかつて長崎俵物問屋として有力商人の1人であったが、このころは衰退に向かっていたし、河村についてもその営業については明らかでない。このため三菱は直接に顧客確保に努めなければならなった。そこでとられた方法が「東京商人」と呼ばれた流通商人との間に交わされた一手積特約であった。函館が旧来の北前船主体の交易、すなわち自己荷物輸送から他人貨物輸送へと移行しつつある時期に彼らは登場してきており、函館における流通過程が変化していく上で一定の役割を果たした商人団であった。これは近世以来の特権的な問屋制度の崩壊と三菱の進出との時期に照応している。
 三菱が佐藤、河村らの特約店の実効があがらないために彼らと結びついたのであるが、開拓使函館支庁では「積合仲間(前ノ東京商人等)…ハ船積ノ率先者ナルヲ以テ三菱会社ニテハ尋常ノ荷主視セス」(「開公」5899)とあるように、率先して三菱の輸送力を利用しはじめた先駆けの一団と評価している。また11年7月6日付けの「函館新聞」には東京商人と呼ばれる階層と三菱のむすびつきを強調した、次のような報道がみられる。

北海道産物を売買するは当市中の商人一般のようなれども中にも仲栄助、蔵田和七、大針喜兵衛、安達重助、三浦作次郎、岸田忠三郎、青木栄次郎、日向野七兵衛、渡辺久平、沓掛民吾の十人は遠近の国々へ貨物を廻す人々にて此の人々は是迄内外船の差別なく運賃の安き方をやといありしに三菱会社にては前の十人へ協議し同社の船々並運賃よりは一割五分を下直にし双方ともなるべくだけ内国の融通を斗りて、この頃約条を結んだと聞いた。

 東京商人のうち岸田、安達、蔵田、仲の4名の11年中における出荷額は40万円余にものぼり、これらの大半が三菱の汽船によったと考えられるので、大量の搭載額であったことが分かる(明治11年度「函館商況」道文蔵)。三菱がこれらの商人と直接取引するに至った理由として11年にイギリス商船と三井物産の秀吉丸が函館に入港した際に、三菱側は顧客を奪われるという危機感から特約を結び、1割の運賃割戻を定めたとなっているが、東京商人団が三菱への荷積みの先駆けであったという評価もあるところから、それ以前にも三菱が東京商人を優遇する措置を取っていたと考えられる。
 ところで、両者の間で交わされた規約に同社汽船への船積みは積合仲間のものを最優先するという条項があって、他の荷主から強い不満が出されていた。これは函館区当局の知るところとなり、三菱の幹事川田小一郎が来函したさいに交渉し、この条項は廃止されて両者間の決着をみている。三菱の顧客確保の努力は函館のみならず小樽の荷主とも同様に北海道物産一手積みの約定を交わしている。
 三菱にとって彼ら一団が同社汽船の有力な顧客であったとはいえ、一方では函館の商人で村田駒吉や田中正右衛門などの海産商や東京や横浜を主な仕入れ先とする渡辺熊四郎、今井市右衛門、菊池治郎右衛門といった洋物商らも東京商人におとらず三菱の利用が顕著であり、支払う運賃も年額で数万円以上におよんでいた(「開公」5899)。
 また函館支社長の船本龍之助は12年5月に開拓使函館支庁に出願して、開拓使の税品、主に日本海側の魚粕などを産地から兵庫や大阪へ輸送する受託業務の許可を受けている。これは日本海航路の収支改善の方策の一環としてみることができる。この他に石炭や米穀輸送などの官用業務にあたっている。
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