![]() 通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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第7章 近代海運の発達と北方の拠点港 汽船・弘明丸の就航 |
汽船・弘明丸の就航 P839−P841 こうして翌6年1月に弘明丸を用いて青森と安渡(現大湊)の両港へ向け試験航海を始めた。弘明丸は206トン、40馬力、明治3年横須賀で建造、積石約500石、乗客数100名というスクーナー形木製の汽船であり(「開公」1171)、横浜の鈴木保兵衛らが3年に横浜・東京間に運航させていたものを5年4月に購入したものである。1月24日の青森便を皮切りに2月上旬にかけて数度の試験航海(これは試験とはいいながらも乗客、貨物を積み運賃収入もあった)を終えた2月11日市在に発着日割等の達しが出された。それによると日程、運賃は次のとおりである。 「定則」 1月に弘明丸が航海を始めてからかなりの利用があったようで、4月までの運賃収入は14往復で2380円余にのぼり、4月中は「追々出稼人等乗込人モ相増候形勢ニ付」(同前)、その利用が増加している。ところが翌5月には黒田次官から弘明丸を青函航路の他に森・室蘭間の航路にも就航するよう指令があり、月の3分の1は同航路にも就航せざるを得なくなった。森・室蘭航路は帆船安渡丸が就航していたが、札幌本道の全面開通を1か月後に控えて同航路を拡充するために取られたのであった。これに対して函館支庁は定日運航がすでに管下では周知されており、また青森側も広く利用しているため、弘明丸を両航路に兼用することは日程の変更もしなければならず利用者の信用も失いかねないとして反対した。しかし函館支庁としても森・室蘭間の航路の重要性を理解していたので東京出張所の指令を受けざるを得ず、そのかわり出来るだけ早い機会に代船を充てることを進言した(「開公」5531)。この問題は12月に至り辛未丸を就航させることで解決した。なおこの間和船によって行われていた大間・函館間の郵便逓送業務は弘明丸による定期航海が可能となったため廃止されている。 創業当初の青函航路は青森から函館への運賃収入がとりわけ大きい。前述したように4月は特に北海道への漁業出稼ぎのため青森から函館へわたる人々で賑わったと考えられる。この航路において和船の利用から弘明丸という汽船へ全面移行がなされたわけでないにしても、運賃収入にみられるように、開拓使経営による青函航路は輸送力の増強という点で大きな役割を果たすことになった。そして北前船による日本海航路と諸汽船会社による東京・函館間の航路とともに、基幹航路へと成長していくのである。 6年12月に弘明丸が青函航路のみに専用船となるとともに函館・青森と函館・安渡の2路線を変更して函館・青森の航路の一部を安渡まで延長するという1線方式とした(「開公」5600)。全体としては従来の月6往復という航海回数は変わらないものの青森行きが3回から6回と増加されたので、両港の交通事情は一層改善されることになった。 |
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