通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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第1章 維新政権成立期の胎動
第2節  箱館戦争
3 旧幕府脱走軍の施政

脱走軍の外交

役員選挙と蝦夷地領有宣言式

脱走軍の軍政

脱走軍支配下の箱館

脱走軍の外交   P238−P241

 各国の領事が在留する開港場箱館を避けて鷲ノ木に入った脱走軍は、鷲ノ木に到着するとすぐに箱館在留の各国領事に声明書(10月20日付)を隱密裡に届けている。脱走軍の密偵小芝長之助らによって届けられた(荒井左馬介「蝦夷錦」)声明書は、フランス語で書かれていた。
 「徳川脱藩家臣」(Les Kerais exiles de Toukugawa)と署名された声明書は、「我々同様我々の国で一年来行われている不幸な内乱の詳細を御存知のことと思います」で始まり、まず「ミカドの廷臣らが徳川の収益を大変減らしたので、家来の大部分は商人や農民になるために、二本の刀を捨てざるを得ないのです。しかし、徳川の陸海軍の全ての勇者達はこのような恥辱を認めることは出来ません。我々も、ミカドの廷臣らと同様に、商人と農民を統治し保護する資格が有るのです…蝦夷に上陸した我ら全軍はここに休息しにやって来ました。もし、我々の部隊が北の同盟国に見捨てられなければ、我々の部隊は直ぐにも蝦夷の統治を組織しに来るでしょう…徳川の戦艦は箱館港に数回投錨するでしょうが、それらは決してそこに大砲を打たないでしょう。もし、南方の艦が戦旗と共に箱館の海に来るならば、我々はそれらと沖で戦うでしょう。もしそれらが平和の旗を持って来るならば、我々はそれらを警戒のため護衛するでしょう…内乱は我々の祖先がずっと以前から住んでいた関東の地方を捨てることを我々に強いました。蝦夷は徳川の新たな領地となるでしょう。そして必ずミカドは我々がそこで我々固有の利益のためにと同様に日本全体の利益のために働いているのを知るでしょう」と彼らが蝦夷地に来た目的を述べ、次いで外国人居留地には脱走軍兵士をみだりに入れないこと、外国人の蝦夷地旅行を認めることなど外国人に対する配慮が表明され、さらに「我々は祖国の地上で名誉をもって生きる法的権利を持ち、これらの権利を武器を手にして守る覚悟のある公戦団体です。従ってもし、不幸にもここで戦争が起こってもヨーロッパ代表者と我々との間の状態は、常に大坂で一〇か月前になされた中立条約以来のように続き得るでしょう」と局外中立の継続と、交戦団体として待遇されることが要望され(「イギリス外務省文書″日本通信″」)、対外的戦略を重視した脱走軍の姿が如実に示されている。この声明書は、英語へ翻訳なされないまま、イギリス領事ユースデンから彼の状況報告書と共に、前に備後福山と越前大野の藩兵を箱館に運んだモナ号(23日に箱館港を出帆)で、横浜のイギリス公使パークスのもとへ送られた。
 なお、この声明書を届けた小芝長之助は、6月の時点で箱館へ入り、商人姿で五稜郭内も探索していたという人物で、箱館占拠後は、市中掛となって敵対者摘発に活躍、市民からも恐れられた存在であった(明治3年「諸願伺留 其三」道文蔵)。
 11月9日、榎本は永井玄蕃とともに、イギリス軍艦サテライトの艦長ホワイト、フランス軍艦ヴェニュスの艦長ロワおよびイギリス領事ユースデン、フランス代弁領事デュースと会談した。この英仏軍艦は、ユースデン報告書を見たパークスとウトレー(ロッシュに代わる新任のフランス公使)が協議して開港場箱館の実情調査と自国居留民の保全のために派遣した軍艦で、11月4日の夕刻に箱館港に着いて脱走軍責任者との会談を要請していたが、榎本が不在であったためこの日の会談となったのである。この会談では、交戦団体(belligerents)として待遇されないこと、日本の内紛に中立(neutrality)でなく不干渉(noninterference)の立場をとる旨の両国公使覚書を口頭で伝えられた(「イギリス外務省文書″日本通信″」)。しかし、アメリカ合衆国、ロシアおよびプロシアの領事には、榎本らの主張が容認されたので、全軍にはデ・ファクト(事実上)の政権と認められたと説明された。脱走軍関係者が書き残した諸記録でも、小杉雅之進の『麦叢録』を始め、外交問題にそれほど関心を示さなかった諸記録には、「函館港貿易筋諸事是迄ノ通リナシ置ベキト談決ス」などとのみ記されているが、大鳥圭介の『南柯紀行』には、英仏船将が書面を取り出して「今より蝦夷島をデフアクトウの政府、現在政権を握れる新政府の義と定めたる旨を読聞せり」とあり、箱館奉行支配組頭として運上所を所管した杉浦清介の「苟生日記」(『維新日誌』)には、榎本が英仏船将らと会談する前々日(7日)の項に「魯亞孛及ビ英仏局外中立ノ法ヲ立ツト云フ、ブリュネ之ヲ話セリ」と記されている。
 その翌日、榎本は1人でイギリス領事ユースデン宅を訪れた。用件は、前の会談で英仏船将に託して天皇へ提出することを了承した嘆願書について見解を聞くことであった。ユースデンからは軍艦と武器一切を新政府に渡さなければ蝦夷地開拓を許される見込みは薄いと勧告された。榎本は松平太郎らと協議、12月1日、徳川家による蝦夷地開拓の請願書を英仏船将に渡し、新政府への取り次ぎを両国公使へ依頼した。しかし、幕府に肩入れしてくれていたフランスに望みを託し、やはり請願書には請願が受け入れられない場合には武力抵抗も辞さないとの但書が付いていた。
 また脱走軍は、箱館奉行杉浦兵庫頭の時にプロシアの商人R・ガルトネル(プロシア代弁領事C・ガルトネルの兄)の働きかけでその端緒が開かれ、箱館府も大きな期待を寄せていた西洋農法の導入に強い関心を示した。脱走軍も彼の働きかけを受け入れ、旧幕府以来の七重薬園を中心に300万坪の地を99年間貸与する契約(明治2年2月19日締結)を蝦夷島総裁榎本釜次郎裁許というかたちで結んでいる。この土地は箱館戦争終結直後、この問題を引き継いだ箱館府(責任者は外務省派遣職員南貞助)が、期限明示のない「地所開拓ノ為蝦夷政府、アル・ガルトネル氏との約定」を締結(6月16日締結)するというまずい対応もあって問題をこじらせたが、明治3年12月10日、箱館府の業務を引継いだ開拓使が、多額の賠償金(6万2500ドル)をもって貸与地を回収している。
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