通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ


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序章 世界の中の箱館開港
第4節 異文化との接触
1 外国人の居留

箱館の置かれた環境

米・露・英の領事

居留外国人と住民の意識

米・露・英の領事   P152−P156

 最後に、居留人民が多かった3国、アメリカ、ロシア、イギリスの領事の動向を記してみよう。居留外国人の第1号でもあった最初のアメリカ領事は、安政4(1857)年4月に来箱して浄玄寺に止宿した、ライスであった。その時アメリカ国務長官からの書簡を持参してきたが、それには「コマーシャル・エージェント(Commercial Agent)」という名目で派遣するとあった(『幕外』15−284)。しかし日米和親条約では、箱館には領事を置くという規定はなかったのである。箱館奉行が老中に照会したところ、当初は駐日総領事ハリス(Harris,T.)でさえ、ライスの正体をいぶかった。ハリスも自国政府からライスの来日を知らされておらず、また「アゲント」と唱えているのは、自国の官名ではない(『幕外』16−10)と断言したほどである。一方、下田条約が調印され、安政5年6月から箱館には下官吏(Vice−Consul)が置かれることとされた。ライスについては、後日ハリスが書簡を確認するに至って、その身元に間違いはなく「国事江捗り候儀」には関係せず、「全商売筋一通之取扱」で来たようであると言い、「アゲント」を「コンシュル四等官のうち最下官」と認め、前言を翻す見解を示し(『幕外』16−58)、結局ライスの扱いについては老中から箱館奉行ヘ達しが出され、「今さら帰すこともできないので、来年六月に新しい下官吏が来たら帰すことにして、それまでは今まで通りにさせておくこと」とされたのである(『幕外』16-196)。
 その後も条約にある新しい下官吏なるものは来箱せず、同じ肩書きのままのライスが残留した。続いて、日米修好通商条約の締結により、安政6年開港場となった長崎・神奈川には領事が任命されたが、箱館は依然としてそのままライスが置かれ、条約を遵守する旨、箱館奉行と書簡の交換を行っている。一応領事としての待遇は認められたものと思われる。ところで官位の低いライスは、政府から満足な俸給を得られず、自ら商業により生計をたてねばならなかったらしい。また、もともとライスの滞留の理由も、在箱居留人への対応が念頭にあったのではなく、寄港船への必需品の売買にあったのは明らかである。しかもハリスは「箱館のワイス・コンシェルは役料少き故を以、開きたる港にて、物品を買ひ、利益を加へ、商売する権有之候」(『幕外』22−10)とこれを公認している。その結果、奉行所の役人たちは「一体彼国(アメリカ)は、士商混雑いたし、利徳を専といたし候習風と相聞、御国士商格別之訳、毎々ライス江申諭候得共、兎角疑惑いたし候様子」(『幕外』22−253)と、ライスの行為によい感情を持たず、ライスとの関係はしっくりしていない。慶応2年には、安政4年から6年4月までにライスに渡した食料品・欠乏品代と家賃の未回収分をめぐる係争があり、ライスの方も運上所は1万7000ドルの未払い金があるとして、この解決は明治にまで持ち越している。
 ライスは万延元年に一時本国へ帰国したが、文久2年に再び箱館に戻ってきて領事館の建設を計画した。ところが整地は終わっても、ライスの構想になる3階建の館の建築費用が予想外に高額であり、将来は病院や牢獄も建設しようという意気込みにも関わらず、結局この工事はこのまま頓挫している(「亜館御普請御用留」)。ロシアとイギリスが領事館を完成させているのに、最も古参のアメリカは事実上、公的施設は作らなかった。官吏の派遣にしても、ライスは前述のように個人の投機的な関心で来箱したとも考えられ、アメリカ政府は貿易港としては魅力のない箱館にあまり関心がなかったことを窺わせる。ところでライスは後年の記録の上では元治元(1864)年に「Cosul」に任命されているが(『日本外交文書』第1巻)、文久2年に戻ってきて以来、「Consul」という肩書きで文書を提出している。ライスの身分には各国の領事も不審を抱いており、奉行も真相がわからず、慶応2年になって江戸の公使に確認を依頼した。これで明らかにされたことは、(1)アメリカの領事の階級の第3位に「貿易方エセント」があり、他国にはない名称であること、(2)ライスは他国の領事の蔑視を恐れて「コンシュル」と称しているらしいこと、(3)各開港場の貿易量の大小に応じて領事の階級を考慮しており、箱館は貿易が盛大の場所ではないこと、(4)ライスはエセントであっても、コンシュル同様の職であること、ということである(慶応2年「進達録」道文蔵)。したがって実際には、慶応2年の時点でもいまだライスは「コマーシャル・エージェント」の地位に留まっていた可能性が高い。『アメリカ領事報告』(国立国会図書館蔵)には、1869(明治2)年9月のライスの書簡に領事拝命を感謝する旨が記されているから、実際にはこの時点で初めて領事になったと思われる。
 次にロシア領事についてだが、安政元年12月、下田で日露和親条約が調印され、領事の駐在については、その第6条で箱館と下田の内一港に置くとされた。そして領事館は安政5年、箱館に開設されたのである。同年7月続いて調印された通商条約では、江戸に外交使節を置くことが認められたが、使節は派遣されず事実上、箱館の領事はロシア政府唯一の代表者であった。かくして領事の任務はある程度、外交使節としての側面も持ったのである。とはいってもその権限では、樺太の国境交渉などは範疇外のことであって、別にロシアからの使節が派遣されている。初代領事となったのは、ゴシケヴィッチで、その外に領事館員として同行してきたのは、書記官、海軍士官、医師、司祭などであった。これは他国にはない充実したメンバーである。1856(安政3)年に領事館員の人選について、遣日使節であったプチャーチンは「ロシアの影響を日本政府だけでなく、広く一般国民にまで及ばせるため、メンバーには造船技師や司祭、医師、天文学者を入れて、滞在は五年以下であってはならない」(平井繁訳「プチャーチン書簡」)と進言していた。実際に来箱した医師アルブレヒトや後任のゼレンスキー、神父ニコライをはじめ、箱館の住民とは色々と接触を持っている。しかしロシアが箱館を選んだ大きな理由と思われるのは、ロシア海軍と極めて関係が深く、不凍港として兵員の休養、食料その外資材の供給、軍艦の修理などのために利用したということである(秋月俊幸「ロシア人の見た開港初期の函館」『地域史研究はこだて』第3号)。前書によれば通商条約に規定された病院用地についても、病院は海軍病院であるし医師も海軍省所属であった。また付属の礼拝堂にしてもその対象は、領事館員のみならず上陸した海軍の将兵がその主体であったという。その裏付けとして幕末の在箱ロシア人のうち、一般人らしいのはホテルを経営した家族など数名で、入港する民間のロシア船は数えるほどしかない。
 ゴシケヴィッチは文久元年に総領事に昇格し、慶応元年に箱館を去っている。その際に領事から遣露留学生派遣についての建言がなされ、領事の帰国にわずかに遅れて、6名の留学生が箱館から旅立った。この実現については「熱心な箱館領事の献策、並びに出先官憲としての箱館奉行の理解あるあっせん」(内藤遂『幕末ロシア留学記』)があったからで、両者間の信頼関係がかなり深いものであったことが推測される。またロシアにとって、日本政府から借用していた1万3000ドルが、この留学生の滞在経費と相殺できた(明治2年「検印録」札学蔵)のも利得であっただろう。ゴシケヴィッチの後任はビュッオフであったが、明治元年末に同職を罷めており、翌年正月にはタラヘテンベルグの名前がみえる。ちなみにビュッオフは明治4年に樺太の国境交渉のため、代理公使兼総領事に任命され東京に着任し、初代のロシア公使となった人物である(外務省編『日露交渉史』)。
 最後にイギリス領事についてふれてみよう。最初の領事ホジソンは前任地の長崎から妻子を伴い安政6年9月に着任した。箱館に寄港する外国船の数では、イギリス商船はいつも上位にあり、中国系の人々が活躍するまでは、外国人の商活動の中心はイギリス系の人々であった。そうした実情を背景に、ビクトリア女王の信任状には、領事の職務として箱館在留のイギリス臣民の保護あるいは、日本人との間に様々な不和が生じた際の調停をすることが記されていた。また同じく在留のイギリス人は領事に服従することが命じられていた。商活動の点では、領事は貿易に携わることが禁止されていたし、ホジソン自身もその意志は全くないことを明言している(『幕外』28−52)。この点ではアメリカと対照的である。到着後間もなくホジソンが奉行に出した書簡で、領事は奉行と組頭にしか対応せず、また公用の書簡で領事を名指しする時には「貌利太泥亜(ブリタニア)女王陛下コンシュル」を用いるべきで、箱館の役人が使う「英吉利(イギリス)コンシュル」は正しくないと通告している(万延元年正月より6月迄「各国書翰留」道文蔵)。このようにホジソンは領事職の権威をかなり意識していたと思われ、奉行所の役人の態度にもしばしば不満をもらしている。着任して約1年後に、彼は奉行所で引替金をめぐつて、傍若無人の態度をとり、それがもとで、万延元年罷免され日本を去った(『通信全覧二編 類輯三十二』)。後は取りあえず、公使館にいたフレッチャーが引き継ぎ、後に同じくユースデンが来て引き継いだ。当時大町に造成中の居留地についてや、領事館建設などの諸問題もあり、ユースデンは「ミニストル附属の者にも有之、事情を弁へ」(同前)ているという配慮があって派遣されたのである。その後広東副領事のウィンチェスターが転任するはずであったが、来箱することのないまま、エンスリーが代理として文久3年まで勤め、後を神奈川領事を勤めていたヴァイスが引き継いだ。ところが、慶応元年に、イギリス人たちが落部でアイヌの墳墓を暴くという事件が起き、この時の処置をめぐって領事ヴァイスの立場にも疑惑がもたれ、彼もまた罷免されるに至ったのである(『続通信全覧類輯之部三十五巻』)。次に領事として着任したのはガワーであったが、その在任期間は短く慶応3年に離箱した。明治元年から再び代弁領事としてユースデンが引き継ぎ、明治4年までその任にあった。なおこの時期の箱館におけるイギリス領事は、イギリス商人の実績に比例するかのように、日英間の商人の訴訟をかなり頻繁に扱っていることが目立っている。
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