通説編第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |
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序章 世界の中の箱館開港 条文の解釈をめぐって |
条文の解釈をめぐって P53−P59 こうして箱館は、安政2年3月の開港によって一挙に欧米列強と直接関係を持つこととなったが、開港がクリミヤ戦争の時期と重なったために、箱館は開港と同時に、ヨーロッパにおける国際緊張の渦の中に巻き込まれることにもなった。それだけに開港直後には、これら入港船との間に様々な問題が発生し、現地の最高責任者である箱館奉行は、その対応に忙殺されることになった。そこでここでは、安政2〜3年におきた諸問題のうち、この期に特有な問題とみられるものを2〜3とりあげ、開港直後にこれら入港外国船ないしは来航外国人とのかかわりで箱館奉行が直面した対外問題の性格と、それに対する同奉行ないしは幕府の対応のあり方について若干検討を加えておきたいと思う。まず最初に、開港直後に箱館に来航したアメリカ商人と彼等の日米和親条約の条文を楯にした交易と箱館居住の要求という問題についてみておこう。安政2年4月3日、アメリカ艦隊の傭船グレタ号が入港した。同船はドイツ船で乗船していた商人リュードルフもドイツ人であったが、同船が入港できたのは、マストにアメリカの国旗を掲げていたからであった。リュードルフの来航目的は、アメリカ艦隊への必要物資の補給と箱館での通商にあった。そのため彼は、入港早々箱館の役人(箱館奉行配下の応接掛他)に、同船に羅紗・衣類・鏡・酒・ガラス器・砂糖・ゲーベル銃・ピストル等の商品を積載していることを告げて箱館での通商を要求したが、役人は、「薪水食料等給し候為之開港ニ付、商売は難二相成一」として積載品の購入は勿論、物々交換についてもこれを拒否し、上陸と市中遊歩を許可したのみであった(『幕外』10−189)。これを不満としたリュードルフは、箱館奉行に書状で、日米和親条約の第7条に「開かれた港に入港する合衆国の船舶に対し、金銀貨および物品と他の物品の交換を許す」とあることを挙げて、箱館での通商を強く要求した(『グレタ号日本通商記』、箱館奉行宛リュードルフ書状の日本側通詞和訳は、『幕外』10−191)。しかし、これに対する奉行の回答は、「右个條之趣は、全交易之筋ニは無レ之、金銀銭を以食料其外買求方差支候船は、此方有用之品物を差出候訳故、此度も実ニ金銀銭差支候ハヽ、品物差出候とも、又は不足之分は、右代銭追而差越候而も宜」しいというものであった(『幕外』10−188)。これについてリュードルフは、「第七条に関する日本側のこの解釈は、ずいぶん変わっている。昨日の話と、だいぶ矛盾している」(『グレタ号日本通商記』)と記しているが、条約第7条は交易を規定したものではないとしながらも、他方で本来的な自由貿易とはその性格が異なるとはいえ、実質的には通商に等しい行為を認める旨の回答をしていたのだから、リュードルフが右のように受け取ったのも当然のことであった。 かくしてリュードルフは、以後″物々交換″という方法を巧みに活用して事実上の交易を行っていったが、奉行側から必要以上の品物を返納するよう命じられたため、やむなく一部返納した。それから6日後の4月23日、リュードルフが待ち受けていたアメリカのフリゲート艦ヴィンセンス号が入港した。同艦にはアメリカ艦隊司令官ロジャーズが乗艦していた。ロジャーズは、後述のアメリカ人商人リード等の箱館居住の件で箱館奉行と交渉しようとしていたが、同艦にはオランダ語のできる人がいなかったため、オランダ語の堪能なリュードルフに英文のオランダ語訳を依頼した。リュードルフは、これ以前にも既にイギリス船やアメリカ船と日本側役人との通訳を積極的に買って出ていたが、ロジャーズに右の件を依頼されて以来、日米和親条約の条文解釈をめぐる日米交渉において、アメリカ側の重要なオランダ語通訳として活躍していくこととなった。そのためもあって、リュードルフは、日米和親条約の各条文の表現が英語版・オランダ語版と日本語版との間にいくつかの点で大きな不一致があることを発見するに至るのである(同前)。特にリュードルフ自身にかかわる第7条について、彼は次のように記している。「アメリカ条約では、第七条がこうなっている。Ships etc. shall be permitted to exchange gold and silver coin and articles of goods against other articles of goods etc.とあって、それ以外に、この条文には何も付加されていない。ところが、日本語で書いた条約には、なお、次の文句が付いている。as many as may be neccesary for them.日本人はこれを楯にとって、こう言う。通商は許されていない。そして、日本へ来る船は、自己の使用に必要であるだけを買うことが許されているにすぎない、と」(同前)。「as many as」以下の文は、和文の「入用の品」を英訳したものであるが、表序−3をみても分かるように、このリュードルフの指摘は的を射たものであった。因に第7条の蘭文和訳は、「合衆国船隻の来舶を准されたる二港内ニ於て、此度日本政府より是か為に設けたる約定の如く、金銀銭貨及品物を以て、各種の品物と兌換(トリカヘ)するを准すへし」(『幕外』5−243)となっており、文意は英文と殆んど異ならなかった。 箱館奉行がリュードルフに必要以上の品物を返納させたのも、まさにリュードルフが指摘するところの日本語版の特異な表現によるものであり、それだけにリュードルフは、右の事実を知るに至って、日本側のこうした条文解釈とその対応のあり方に改めて大きな疑問と不満を抱かざるをえなかった。そのためロジャーズは、こうしたリュードルフの意を受けて、箱館奉行に対し次のように抗議した。「條約第七个條之内、和文ニは入用品与申儀有レ之哉ニ候得共、ペルリより相達候書面ニは無レ之、たとへ入用之品と有レ之候共、不用之品は不二買求一、何も入用之品故買入候事ニ而、本国ニ而は交易も相済候儀与相心得居候、然るを、今度商人買入候品多分と申、為二差戻一候儀、條約ニも振れ、不都合之次第ニ有レ之、弥右之心得ニ候ハヽ、大統領江可二申立一」(『幕外』11−75)と。箱館奉行竹内保徳は、このロジャーズの抗議を受けて、「今度猶買入方等之儀強而不二申立一、只々七个條之趣、此方之心得を得与承糺候様子ニ相見候間、是迄之趣を以挨拶仕候而は、條約之意味齟齬仕候旨ニ付、容易ニ挨拶も仕兼心痛仕候」としたうえで、あえて日露和親条約第5条(日米和親条約の第7条に対応するもの)の蘭文和訳に「望ミの品物を弁するを許す」(日本語版は「入用の品物を弁する事を許す」〔『幕外』8−193〕)とあることを挙げつつ、「往々は何れにも交易之儀強而可二申立一」として、その対応策を老中阿部正弘に伺っていること(『幕外』11−75)は注目されてよい。というのも、このことは、竹内自身が日本語版の第7条の表現に問題があることを認識するに至っていたことを示すとともに、いずれ欧米列強との通商条約の締結は避けられないものと認識していたことをも示しているからである。
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