通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第14節 生活・宗教
2 宗教

神社/寺院

堀川乗経の活躍/東本願寺の桔梗野開拓

キリスト教/民間信仰

キリスト教   P699−P700

 徳川幕府の徹底的な切支丹弾圧は、アンジェルス、カルバリオ(ともにイエズス会宣教師)らの蝦夷地布教による信者を、寛永16(1639)年斬首し、その数106人と伝えられる。以来、キリスト教徒の消息は断たれていたが、元禄以降、北方千島方面にロシア人によってギリシャ正教が進入、アイヌ人に広まった。幕府はその取締りに苦心して、蝦夷地に官寺を3寺建立したりなどした。更に安政の開港は、再度この地にキリスト教を普及させる結果となり、箱館はその拠点となった。
 安政2年、フランスの軍艦シビル号に宣教師2人が乗って入港している。またこれより先、ペリー来航時(安政元年)には乗組者のなかに宣教師がおり、たまたま箱館で死亡した2人の水夫のために、キリスト教葬が行われている。もちろんこれらは日本人に対する直接的布教ではないが、同教の再入の先駆と言い得る。

ニコライ
 安政5年、ロシア領事着任の時、これに領事館付きの司祭イワン・マホフが同行し、万延元年ハリストス聖堂を建てた。また翌6年には天主公教会の宣教師メルメ・デ・カツョンが来て仮堂(天主堂)を建てた。これらの神父が文化面でも非常に活躍していることはすでに「教育」「学芸」「衛生」の項に詳述した通りである。キリスト教禁止の当時に、宣教師の入国は重大問題であったが、条約で各国居留人だけを対象にするという条件のもとに、領事館内に教会堂の設置が許されたのである。 
 文久元(1861)年には、イワン・マホフの後任としてニコライが来たが、その活躍もまた著しく、異教に激怒して斬殺しようとした神明社の神官沢辺琢磨をも、逆に信者にし、古事記、万葉集まで学ぶという熱心さであった。彼がロシア語を教えた者のなかには、山東一郎(早稲田に北門義塾を開く)、小野寺魯一、嵯峨寿安(2人ともロシアに留学)などがある。ニコライの真意は、日本人の教化にあり、後東京に出て駿河台にニコライ堂を建立して日本ギリシャ正教の本山とし、ために箱館はわが国におけるギリシャ正教の発祥の地となった。
 また元治元(1864)年箱館港から海外へ脱出した新島襄も滞箱中武田塾頭菅沼精一郎の紹介によりニコライと交わっている。襄はアメリカに学んで帰国し、のち、京都にキリスト教による同志社を創設した。

民間信仰   P700

 神社のなかにも、薬師、観音、稲荷、龍神など、民間信仰に端を発したものも少なくない。永享の鰐口の銘にみる「山神」は、文字通り山神信仰である。橡(とち)の連理木を信仰するものもあれば、庚申の祭祀もある。蛭子、大黒については、前者に蛭子講あり、後者は大黒町の名まで生んでいる(若狭屋なる漁家でこれを祭り、それから町名が生まれた。その大黒はのちに実行寺に納められた)。実行寺の裏山には七面の信仰が生まれ、一般には仏教を本旨とする観音や地蔵の信仰も盛んであった。また性器崇拝もあって、石製の金精神や、エンギと俗称される張子の男根などがあり(これは明治5年に禁止されている)、イタコによるオシラサマ信仰もみられ、イジナ(じつは飯網(いづな))の俗信もあった。『渋田翁雑記』に、箱館八幡宮の祭りの山車にまつわる鬼人形の話があり、鬼人形が亡霊を封じたことが述べてあるが、東北地方にみられる鬼人形による悪病退治と同義のものである。
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