通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第14節 生活・宗教
2 宗教

神社/寺院

堀川乗経の活躍/東本願寺の桔梗野開拓

キリスト教/民間信仰

神社   P697

 安政4(1857)年弁天岬台場築造のため弁天社(弁財天社のことで、この時代には弁天社と通称されていたらしい)が移された。文久元(1861)年には天満宮が仲新町に移され、翌2年亀田八幡宮の拝殿を改築した。豊川稲荷社(函館八幡宮の摂社)は文久2年(一説に3年)に創立された。東照宮は日高様似の等樹院(文化年間建立、蝦夷三官寺の1つ)に勧請されていた東照大権現を元治元(1864)年五後郭が築城されたおりに、その鬼門守護として亀田村上山に遷(せん)座したもので、元治2年4月17日鎮座祭を挙げ、上山は神山と改められた。御用達、問屋らの献金で神殿ができて結構を極め、「蝦夷日光」といわれたが、明治2年兵火で焼け、以後箱館に移された。
 このころになると屋敷神としての稲荷神の祭祀が方々に見られ、『箱館夜話草』には「十人の稲荷」「地主稲荷」「天光稲荷」などの名がある。天光稲荷は山背泊稲荷神社として現存する。また船見町に函館稲荷神社があり、ここに「宝永稲荷」といって、古い稲荷神(一説に宝永年間創建)が合祀されている。

寺院   P697−P698

 『箱館夜話草』に「惣じて箱館の寺々は他国の寺院に対しては、実に御朱印地あるいは大地に比すべし」とあり、外人の記録にも「この国で見たこの最も美しい建物」(アメリカ日本遠征隊の一員スプロストン士官の記録)などとあって、寺院は豪華であった。開港とともに寺院は外人の宿所や休憩所に利用された。安政4年には高田屋の闕所でなくなっていた不動院が、南部の修験者の手で再興され、翌5年には高龍寺が堂宇を再建している。またこの年浄玄寺が本山の掛所となり、本願寺箱館御坊浄玄寺と改称した。浄玄寺は松前専念寺の掛所であったが、京都の本山は開教上の拠点として箱館に着目し、年額50両の借上会釈金を払う約束で、これを本山直属としたのである。それは次に述べる本願寺派の寺院出現に対する対抗策でもあった。
 願乗寺(浄土真宗 現本願寺派本願寺函館別院) 安政4年、本願寺休泊所として建ち、万延元年、本願寺掛所願乗寺と改称した。西本願寺は東本願寺末寺の専念寺に拒まれて、永く蝦夷地に寺宇を建立することを禁じられていたが、幕府再直轄の代になって、はじめて小樽とここに寺院が出現した。そのために奔走したのが奥州下北の騎乗寺の僧乗経であり、彼は上磯の濁川(清川)の開拓や願乗寺川の掘割などで活躍した名僧である。明治10年本願寺別院となった。
 ほかに安政4年浄土宗有珠善光寺の説教所が建ち、文久元(1861)年には天台宗清光院(現真言寺)が建ち、慶応3年には真言宗智山派注連寺(湯殿山)が出現している。吉川町の浄土宗極楽寺は念仏堂といい、また無縁寺とも通称され、仕置場のそばに建てられて、慶応のころから僧が住んだ。
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