通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第5章 箱館開港
第1節 箱館開港の経緯
2 ペリーの箱館来港

松前藩への通達

市在住民への触書

アメリカ艦隊の入港

艦隊の動静

旗艦ポーハタン号の入港

アメリカ士官との応接

士官らの市中見物

松前藩の回答書

勘解由の米艦訪問

ペリー提督上陸会談

幕吏の来箱/噴火湾及び室蘭港調査

2水兵の埋葬

箱館住民との接触/アメリカ人の見た箱館

写真撮影/松前藩役人に対する批判/艦隊の抜錨/遊歩区域の確定と批准

艦隊の動静   P560−P561

 その後のアメリカ艦隊の動静には夜中は何事もなかったが、16日の午前10時ころから3隻のボートをもって湾内の測量をはじめ、更に正午ころ2隻のボートに小旗を立て、多数乗組み山背泊台場へ漕ぎ寄せ、上陸しそうな様子なので、かねて配置されていた警固の人数が出て、手真似で上陸を制止したところ、直ちに2隻とも沖の方に漕ぎ出し弁天崎の方へ向った。そこで遠藤又左衛門、藤原主馬の両人が、弁天崎に至って見分していると、ここには寄らず、内澗の方に乗入れたので、注進によって石塚官蔵、関央ら応接方が沖ノ口役所に詰合っていたところ、やがて同所へ漕ぎ寄せ警衛の制止も聞かずに上陸した。やむなく代島剛平が沖ノ口役所へ案内したが、上陸したのは4人で、その内3人は船長らしい異人で、紺羅紗の頭巾(帽子)に筒袖同股引(洋服)を着用、両肩先に金で房様のもの(肩章)を掛け剣を帯びていた。外に、着服は同じだが肩飾りも剣も持たない従者1人であった。着座をすすめたが腰掛を貸してくれという仕方をしたので、有り合わせの机に毛氈をかけて差出し、干菓子、茶、煙草盆などを出した。応接の者が出て、上陸の理由を尋ねるため従者と筆墨をもってしばらく筆談に及んだが、はっきりしたことはわからなかったけれども、鮮魚、野菜類などの供給を求めていることがわかり、承知の旨を答えると異人たちは至極平穏に午後2時ころ元船へ帰った。
 そのほか、18日には異人15、6人がボートに乗組んで、亀田浜に上陸して引網漁をしたり、19日には、亀田浜、七重浜、有川辺へ上陸、制止も聞かず引網したり小銃で野鳥をとったりしているばかりか、高橋七郎左衛門の報告によると、同日午後2時ころ、5、6人の者が七重浜に上陸し、持参した徳利を出して談笑して飲み合っていた。そのうち1人がその徳利を下げて有川付近まできて、日本語でサケ、サケとしきりに求めるので、警固の足軽共は手真似で酒は一切ないと断ったが、何分にも聞入れず、だんだん村内に入ってくる様子に、まず平穏に処理することが然るべきと考え、有り合わせの「にごり酒」を少々その徳利に入れてやった。ところがその答礼のつもりか銀銭一枚を差出し、手真似でいくら断っても無理に置いたまま本船に帰った、ということなどもあった。
 もちろん、彼らアメリカ船の要請については、これまですでに薪4,000本、水180荷、鮮100本、鰊2,500尾、その他卵、鶏、野菜等はそれぞれ提供し、ひたすら穏便にすまそうと努力した姿がみられる。またアメリカ側からも答礼品として、亜国酒12陶、羅背板5切1袋、煉煙草12枚1包、茶木綿袋入1袋など贈られているが、これらの品物はすべて長持に入れて封印して保管した。
 このように連日連夜緊張した警備に忙殺される日々が続いたが、警固の侍も少なく、そのため「沖ノ口役所夜中高張を灯(とも)しおき、その外町には休息所番屋を建て、一夜代り大勢不寝番拍子木打ち夜廻り仕り、夜中上陸これなきよう用心の趣に御座候。但町により十人より十四人位、組頭相立おき候分、此節残らず帯刀致させ、町代附添い沖ノ口へ相詰め、又は昼夜市中相廻り、其外重立者へ申付け、一人づつ帯刀致させ夫々召使い候由。」(『松前箱館雑記』)とあって、松前藩吏の苦心はひとかたならぬものがあった。

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