通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第2章 松前藩政下の箱館
第7節 宗教・文化・生活
1 宗教

良忍上人の渡来説/日持上人の渡来説/随岸寺

神社/河野館館神

寺院

箱館山の薬師信仰/下海岸方面の社寺/円空・空念の渡来/キリスト教/供養碑の建立

神社   P407−P408

 往時は神仏混淆の時代で、薬師堂のごとく寺か社か区別しがたいものもあるが、のちに神社と定められたものを挙げれば、次の通りである。

亀田八幡宮 明徳元(1390)年、河野加賀守森幸なる者が越前敦賀郡の気比神宮より勧請し、文禄年間には領主蠣崎氏の祈願所となり、慶長8(1603)年、本殿、拝殿が建立された(『函館区史』)とあり、また、『福山秘府』(諸社年譜並境内堂社部)では「造立年号相知れず」とある。だが初代神職は享禄年間の奉職と伝え、延宝2(1674)年の棟札も現存し、また元文4(1739)年の棟札もあって、それには領内の五穀豊熟祈祷所の旨が記されている。

箱館八幡宮 文安2(1445)年、河野政通が宇須岸館の東南隅に鎮護の神としてまつり、アイヌ騒乱で一時赤川に移ったといわれているが、河野政通の渡来年代とは相違している。『蝦夷実地検考録』には慶安年間、巫子伊知女創祀、正徳5(1715)年神職菊池惣太夫の時再営したとあり、更に『福山秘府』には「造立相知れず」と記されている。いずれにしても江戸前期には河野館の跡にまつられており、宝永5(1708)年には造り替えられたと伝えられている。

神明社(現山上大神宮) 『蝦夷実地検考録』によると、明暦元(1655)年、南部の修験者感応坊創祀、元文4年、社人沢辺彦之進の時再興とあり、『福山秘府』では創始年号不分明、宝永5年造り替えとし、社伝の由緒では慶安年間草創となっている。別に天和年間(1681〜1684)亀田から移されたという説もある。

船魂大明神(現船魂神社) 前記良忍上人創建の伝説をもち、『福山秘府』でほ「観音堂」といい、『蝦夷実地検考録』では「里俗観音と称す」とある。なお、延享4(1747)年、箱館八幡宮の神職菊池氏が再築したと伝えている。

湯川村薬師堂(現湯倉神社) 元和3(1617)年、湯座に薬師仏を祀ったのに始まると伝える。承応初年に松前千勝丸(後の9代高広)が湯治し、母清涼院が奉謝のため、承応3(1654)年、知内産の黄金で作った薬師尊像と鰐口を奉納したという。その鰐口は湯倉神社に現存し、それには「奉掛薬師堂松前千勝丸敬白甲午承応参年正月吉祥日」、裏に「国次作」と刻まれている。

弁財天社(現厳島神社) 亀田八幡宮の神職が漁期に来て豊漁祈願したのが始まりといわれ、『津軽一統志』にも「弁才天」と記しているから、寛文10(1670)年ころには存在していたと思われる。また『福山秘府』には、宝永6(1709)年「泉州堺鍋屋五郎兵衛と申者願に付造替、此節神体を安置」と記されている。

住吉大明神(現住三吉神社) 『箱館夜話草』に、明暦元年、南部の修験者感応坊創建と、神明社と同じことを記している。神明社の神職沢辺氏はもと尻沢辺に住して、沢辺姓を名乗ったというから、両社関係があるらしい。『蝦夷実地検考録』に安永4(1775)年再築と記している。

龍神宮(現海神社) 安永9年漁者が海上安全を祈って勧請したという。箱館八幡宮の摂社である。

 このほか箱館八幡宮には、摂社として、愛宕大明神、天満宮、末社として大工祖神、八郎大明神などあった。

河野館館神   P408−P409


松前千勝丸病気平癒のお礼に奉納した鰐口(湯倉神社蔵)
 箱館八幡宮が河野氏の館の館神のようにいわれているが、『蝦夷実地検考録』には、求中稲荷大明神というものを挙げて、「館神社と称す。草創詳かならず、按ずるに河野加賀守の館裏に在し名なるべし」としている。また前記の愛宕大明神を「往昔は無火神社と称し、河野加賀守創建といい伝う」としている。館神が果たしてどれであったか考究上の疑問を残しながらも、いずれも河野氏に関係のあったことを伝えて注目される。
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