通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第2章 松前藩政下の箱館
第5節 北方情勢とロシア使節の来航

ロシア人の南下/赤人ノッカマプに来る

寛政の蝦夷乱/幕府の御救交易

ロシア使節の来航

異国船の出没/箱館の警備

異国船の出没   P397−P398

 ラックスマンの来航以来、北方問題は、幕府首脳部の間にもいよいよ重大化し、蝦夷地の警備ならびに経営に対して積極的な方策が考えられ始めたが、それに拍車をかけたのは、寛政8年、同9年におけるイギリス船の噴火湾入航であった。
 すなわち、林顕三編『北海誌料』によると、

 寛政八丙辰年八月十四日、英吉利船一般(船体長さ三十間余大砲二十四門船五艘革船二艦を蔵め、乗組員百余人内女一人)、東蝦夷地シラヲイ沖よりサハラ、アブタ、ヱトモへ渡来す。松前の家臣応接し薪水乏しきによりアブタに寄港し、是れより我南海を航し支那国広東に至り交易を為さんとすと、船主はブラウンにして我が国辺海に来りたること十一の多きに及べると云う。

とあるが、これこそ英国海軍大佐ウィリアム・ロバート・ブロートンの率いる探検船プロヴィデンス号である。ブロートンは英国政府の命を受け前年本国を出帆し、日本諸島に面したアジア大陸東岸を探検測量しながら、8年8月上旬奥羽南部に着し、北に向って噴火湾に入り、同月14日虻田に停泊し、薪水を求めて上陸、天測などを行って去ったのである。この時たまたま松前藩家老松前左膳が、蝦夷地巡視のため厚岸に至り、その帰途長万部でこの知らせを聞き、ただちにこれを福山に報告するとともに、虻田に引き返して応接したが、何分言語が通じないので来泊の事情を明らかにすることができないまま、英国船は17日錨を抜いて水深などを測量しながら絵鞆に至って停泊した。こうしているうちに松前藩から高橋壮四郎、工藤平右衛門、加藤肩吾らが到着、同24日に応接してみると、外人は世界地図や各国の旗章などを記した書籍を出して英国船なることを指示したが、それさえもわからなかった。さいわい船中に1人のロシア人がいて、加藤肩吾が先年露人に応対した経験から若干露語を解することができたので、ようやく英国探検船なることを知ったのである。ところが当時福山では、この外国船の噴火湾来泊の知らせを受けると、芝居や相撲などの催し物を禁止して警戒にあたり、隠居中の松前道広は自ら兵を率いて出陣せんとし、家臣の諌めも聞かず名を狩猟にかりて、物頭松前鉄五郎以下280人を召し連れ、8月26日福山を発し同28日亀田まで来たが、すでに英国船が去ったことを聞き、9月8日福山へ帰着するという大騒ぎを演じている。
 しかも噴火湾の異国船はこれだけにとどまらず、越えて9年ブロートンは一旦日澳門(アモイ)に至って準備を整え、再び北方探検に出発したが、プロヴィデンス号が破損したので、スクーネル船に搭乗、わが国の東海を経て7月19日(あるいは22日ともいう)またも絵鞆に入港し、上陸して薪水をとり、あるいは鍛冶をして釘を造った。乗組員は34人。松前藩では虻田勤番からの急報により、工藤平右衛門、加藤肩吾を遣わし、両人は26日絵鞆に着き、ただちに船を訪れたところブロートンは旧知の故をもって、これを船内に招き種々の図を示し船中を案内したが、藩吏らは前回と全く変わって英船を監視する態度を示したので、万一を憂慮し、努めて出帆の準備を急いだ。藩では、また下国武、新谷六左衛門らに命じて士卒300人を率いて絵鞆に急行させ、更に高橋壮四郎をして堅く渡来を禁じ、もし上陸して不法のことあれば撃退する旨を諭させた。下国らが砂原まで来たところ、英船はその位置を転じ順風を待って閏7月2日帆を揚げて去った。同船は8日津軽海峡に入り、9日福山沖に姿を見せたので、城下では守備を固め、人心は恟(きょう)々たる有様であったが、船はその夜西に向って去り再び船影を見せなかった。

箱館の警備   P398−P399

 この飛報が江戸に達すると、9月22日幕府は津軽藩に命じ、一隊の兵を出して箱館を守らせ、同月25日藩主章広は参勤のために福山を出発したが、途中仙台領水沢で江戸留守居役尾見蔵多が老中からの命令書を持参したのに会い、同地から帰藩した。なお11月津軽藩番頭山田剛太郎、目付佐野吉郎兵衛以下557人は、幕命によって弘前を発し、三厩から箱館に渡って警衛に任ずるという、物々しい警戒体制をとっている。
 以上のように蝦夷地近海の頻繁な異国船の出没に、幕府はいよいよ北方警備の急務なことを悟り、その経営の積極的な推進を痛感するに至り、ついに寛政10年180余名からなる大規模な巡察隊を派遣し、その調査の結果蝦夷地直轄の大方針が決定された。
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