通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 安東氏及び蠣崎氏
第4節 アイヌ蜂起と蠣崎氏の台頭

コシャマインの乱

乱後の箱館/蠣崎氏の松前進出

蠣崎氏の蝦夷地掌握/アイヌの抗争

騒乱後の商品流通/講和と夷役/領土の確定

騒乱後の商品流通   P338

 さてこの間、箱館・志海苔のように康正年間以来、およそ1世紀にわたる永い歳月、現地ではおそらく商品流通の道も中断されたであろう。この間アイヌ住民は、どのような経過をたどったのか、いまのところほとんど知ることが出来ない。ただ、ここで永禄8(1565)年、わが国に在留した宣教師ルイス・フロイスが、同年2月28日付をもって、インドの教父に送った書面によると、「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭頗る長き蛮人之に住す。……蝦夷に近きゲスエン地方に秋田という大市あり。彼等は多数此市に来りて貿易し、秋田人も亦時々蝦夷に赴く」(『新北海道史』)と報告しているが、すでに蠣崎氏が松前に進出し守護職に任じられてからでもあり、おそらくこれは蠣崎氏が年々秋田の安東氏に派遣する交易船で、そのなかには多くのアイヌ住民もいたことを物語るものであろう。

講和と夷役   P338

 以上のような推移のなかに、その後、アイヌ民族の動静も比較的平穏が続いた。ことに義広の子季広の時代に至り、いたずらに彼らと事を構えることの不得策なのを悟り、懐柔よろしきを得るとともに、アイヌ民族の珍重する宝器を与えて歓心を買い、天文20年東西のアイヌ酋長と講和を結び、勢田内(瀬棚)の酋長ハシタインを上ノ国において西部の酋長とし、また、志利内(知内)酋長チコモタインをもって東部の酋長として、「夷狄の商舶往還の法度を定め」て、諸国から往来の商船から役銭を徴し、その一部を「夷役(いやく)」と称して、東西の両酋長に与え、東西蝦夷地から来るアイヌ船の停泊地を一定し、それによってアイヌ産物を自家の手に独占する方策をとった。

領土の確定   P338−339

 それと同時にこのことによって、これまでみた和人の自由な蝦夷地侵略に歯止めをかけ、渡島半島知内川の以西天ノ川までの境域を、正式に和人地と定め、和人の領土として、アイヌ人側が最終的に承認したことを示すものであり、明確なかたちでの「和人地」の確立は、この時点に求めることができる(『日本北方史の論理』)。
 なお、騒乱時箱館に居住していた和人のうち、零細な住民が若干亀田にとどまり、アイヌと雑居していた者もあると伝えるが、しかし、箱館は近世の中期に入るまで長い間の不振が続いている。

「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第1巻第3編目次 | 前へ | 次へ