通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第1章 安東氏及び蠣崎氏
第4節 アイヌ蜂起と蠣崎氏の台頭

コシャマインの乱

乱後の箱館/蠣崎氏の松前進出

蠣崎氏の蝦夷地掌握/アイヌの抗争

騒乱後の商品流通/講和と夷役/領土の確定

蠣崎氏の蝦夷地掌握   P336−P337

 しかるに永正10年、「六月二十七日の早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し、守護相原彦三郎季胤、又村上三河守政儀を生害せしむ」(『新羅之記録』)とあって、アイヌの襲撃によって滅ぼされたとするが、一説には「蠣崎光広大館を攻め、相原氏、村上氏を滅ぼす」(『福山旧事記』)というのが真相らしく、これによって蝦夷地における安東氏の係累の勢力は、全くついえ去ったのである。
 かくて翌永正11年3月、光広はその子良広(のち義広)とともに、小船180隻を率いて上ノ国から松前大館に移り、その旨を檜山の宗家安東尋季(政季の摘孫)に2回にわたり報告したが、檜山安東氏は、いわば外様の蠣崎氏にこれをゆだねることを、多分に逡巡(しゅんじゅん)したらしく、使者はともに数か月たっても帰って来なかった。そこで義広は、特に紺備後広長という浪人を選んで、檜山に使いをさせてようやくその目的を果たした。この時尋季は、はじめて義広の書状を被見し、使者の口上を聞き、蝦夷島を蠣崎氏にあずけ、よろしく国内を守護すべき旨の書を下したという(『能代市史稿』)。以来、蠣崎氏は諸国から大館に来る商船・旅人の運上の過半を檜山に納め、主従の義を失なわなかったといい、また紺備後はその功によって、役取人(収税吏)に任じられ、一門に準ずる待遇を受けるに至った(『新羅之記録』)。

アイヌの抗争   P337−P338

 蠣崎氏が檜山安東氏の代官になることによって、蝦夷島における和人の間に最高の地位を得、各所に占拠していた前述の館主の子孫や豪族の大部分を臣下につけることに成功したが、しかし、いまだ隠然たる力をもつアイヌ民族の支配にまでは及んでいなかった。ことに、東部の敗北によって、急激に和人が西部地帯に集中したため、必然これまでこの地帯でアイヌが保有していた権益を侵し、感情を害する結果も多かったと思われ、従って幾度かの抗争が繰り返された。すなわち、その後の大きな動乱を挙げれば、永正12年の庶野峙(ショヤコウシ)兄弟の乱をはじめ、享禄2(1529)年の多那(従来タナサカシと読んでいるがは犬でタナイヌと読むべきであろう『新北海道史』)の乱、または天文5(1536)年西部の酋長多離困那(タリコナ)の来襲等、いずれも蠣崎氏の2大根拠地、大館と上ノ国を対象として襲っているが、そのたびごとに蠣崎氏は権謀術数をめぐらして和睦し、ついには酒宴を用いて泥酔させ、あるいは利をもって誘い、その隙に乗じて首領一味を虐殺するという、常套手段を用いている。
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