通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世


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第1章 安東氏及び蠣崎氏
第4節 アイヌ蜂起と蠣崎氏の台頭

コシャマインの乱

乱後の箱館/蠣崎氏の松前進出

蠣崎氏の蝦夷地掌握/アイヌの抗争

騒乱後の商品流通/講和と夷役/領土の確定

乱後の箱館   P335−P336

 コシャマインの乱後の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定が衣鉢を継いで志海苔にあり、河野政通も箱館を回復し、また湯川と志海苔の間には、良景の2男小林二郎左衛門政景の子、小二郎季景が与倉前の館を築いて居住したと伝えるが、政治・交易・経済が、具体的にどのような経過をたどってきたものかほとんどわからない。ただこうして約50数年間の平穏が保たれてきたが、永正9(1512)年4月、東部のアイヌが再び蜂起し、箱館・志海苔・与倉前の前記3館を攻略、当時館主であった箱館の河野弥次郎右衛門尉季通をはじめ、志海苔館の小林良定、与倉前館の小林季景はいずれも戦死した。更に茂別館の下国家政も、これよりさき文亀元(1501)年に没し、孫の下国八郎師季が嗣いでいたが、これまた「夷賊に敗続」して松前に逃れ去り、いわゆる東部箱館を中心とした和人の勢力は完全に潰滅を告げるに至った。かくてその子孫は、志海苔の3代小林三郎右衛門良治が永正11年松前に移り、与倉前小林季景の子小三郎景宗は、同12年蠣崎光広に臣事し、また河野季通の1女(3歳)は、乳母に負われて松前に逃れ、後に蠣崎季広(松前家4代)の室になったという。なお、これらアイヌの動乱は諸館の統一をもくろむ信広父子がアイヌを使嗾(しそう)して起こさせた策謀という説もある。

蠣崎氏の松前進出   P336

 このような東部アイヌのたびたびの抗争により、次第に和人は繁栄を誇ったこの地帯から駆逐され、蝦夷地和人の中心は上ノ国、福山(松前)の地に移った。この間、蠣崎信広は蝦夷地統一への触手を伸ばし始め、上ノ国の天ノ川、石崎川、厚沢部川の豊富な鮭や、石崎川の砂金を手中におさめるとともに、アイヌの騒乱にわずらわされることなく、北陸方面との交通も保たれて力を蓄え、着々とその勢力を拡張していた。しかし、この時点にあっても、蝦夷地における和人勢力の統一者は、依然として出羽檜山の安東氏の系譜に連なる、譜代ともいうべき松前の大館の下国氏にあって、外様の蠣崎氏は上ノ国地方の一館主に過ぎなかった。
 こうしたなかに明応3(1494)年5月、信広は64歳をもって没し、その子光広が継いだ。
 一方、松前の大館を預っていた下国氏も、定季の没後その子恒季が継いだが、恒季はとかく行状が粗暴で無辜(むこ)の民を殺戮(りく)することもあったため、家臣どもはこれを憂慮し、ひそかに檜山の宗家安東氏に注進したので、明応5年11月、檜山の安東氏は追手を下して恒季を自害させた。そしてその後は、相原周防守政胤の息彦三郎季胤に大館を守らせ、村上三河守政儀をもって季胤の補佐をさせた。
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