通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 |
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第1章 安東氏及び蠣崎氏 コシャマインの乱 |
コシャマインの乱 P334−P335 康正2(1456)年のアイヌの蜂起の発端について『新羅之記録』には、「中比(なかころ)内海の宇須岸(箱館)夷賊に攻め破られし事」とあって、次のように記録している。志濃里の鍛冶屋村に家数百有り、康正二年春、乙孩(おっかい、アイヌの男)来て、鍛冶に刀(まきり)を打たしめし処、乙孩と鍛冶と刀の善悪、価を論じて、鍛冶刀を取り乙孩を突き殺す。之に依て夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より、大永五年春に迪(いた)るまで、東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り、者某(しゃも、和人)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起るなり。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。 とあり、この騒動の直接の動機は、あるアイヌが和人の鍛冶屋に打たせた小刀の利鈍や価格について口論となり、ついに無法にも鍛冶屋がその小刀でアイヌを刺し殺したことが原因であるとするところから考えると、これまでの交易における、和人の供給する物資の粗悪化や不等価交換に対する、永い間の累積した不信と反感とが、この事件を導火線として期せずして爆発したものであった。
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