通説編第1巻 第2編 先史時代


「函館市史」トップ(総目次)

第4章 原史の時代
第3節 江別文化

江別集団の発生

有角人と有翼人

狩猟用具の変化

鉄器と玉

江別式土器

江別集団の発生   P284−P286

 恵山文化が北海道西南部から道央に広まって全道的に影響を与えたころ、江別を中心に新しい文化が誕生した。函館にも西桔梗E2遺跡では江別式墳墓が発見されているが、道南だけでなく、江別文化はこれまでの調査で道東北で北見型と呼ばれる地域性のある文化を形成する。その分布は樺太南部や千島列島南部にまで及ぶが、一方では函館周辺から東北地方の青森、岩手、秋田、山形の各県、宮城県北部にまで波及する。東北地方の遺跡は海岸よりも河川上流域にあり、北上川上流域の盛岡では20数か所の遺跡が確認され、墳墓群や出土品は江別と同様である。北海道の文化の南進は民族の移動と考えるべきである。その時期については弥生時代後半から古墳時代ともいわれているが、民族の移動は鉄器文化の吸収であり、経済交流でもあったであろう。江別文化の後半の時期には石器が急激に減少して古墳時代の遺物がもたらされるが、本質的にはフゴッペ洞窟のように変質することがなかった。
 有名な江別市坊主(ぼうず)山遺跡は昭和6年に後藤寿一によって発掘され、河野広道、名取武光、高倉新一郎、須田信らの調査で″竪穴様墳墓群と伴出する土器は本道特有の金石併用時代のものである″ことが明らかにされた。当時は江別の土器を前記のように後期北海道式薄手縄文土器(後北式)と呼び、A型からD型まで4型式に細分して編年した。この編年は今日でも基本となっているが、この文化を江別文化と呼び、土器形式を江別式と呼ぶようになった。遺跡は江別の対雁(ついしかり)にあって広範囲のため江別兵村、町村農場といわれていたが、江別市の西側で石狩川の流域に発達した丘陵地帯の全長2.5キロメートルにわたって遺跡が存在している。この丘陵は豊平川に向かって石狩川の南側にあるが、ここには竪穴様墳墓、竪穴集落群、北海道式古墳群、チャシ(アイヌ民族の砦(とりで))があった。報告によると竪穴様墳墓群が8か所、竪穴集落群が4か所、チャシが2か所、北海道式古墳群が1か所であるが、竪穴様墳墓とは墓壙内部に竪穴住居のような柱穴様の穴がある特有の江別式墳墓である。数十基単位になって、その数は数百基から千基に及んでいたが、昭和35年に北海道電力株式会社の火力発電所建設工事で破壊されてしまった。

フゴッペ洞窟の遠景
 江別式土器の古い形式は、器形や縄による施文方法などに見られるようにその技術は恵山式土器から継承されている。江別式土器の文様はアイヌ文様にも似ているが、古い形式から壷形土器の吊(つり)耳とか片口土器など独自の様式に発展し、やがて器形や文様が簡素化して次の北大式と呼ばれる土器形式に編年されてゆく。江別式墳墓群のように数十基を単位とする群集墳は恵山式には見られないが、副葬品に見られる人為的な器物の破損現象は前述した恵山式のキーリングの風習とも共通している。一定地域に集中する墳墓群は石狩川流域に江別集団を代表として各地に存在したが、墳墓群からは後期古墳の群集墳のように階級社会を知る手がかりは得られていない。しかし、墳墓群からはわからなかった江別文化をより明確にしたのは余市のフゴッペ洞窟の調査である。この洞窟は海岸に近い凝灰質砂岩の丸山で発見され、名取武光を中心とするフゴッペ洞窟調査団によって昭和26年から発掘調査が行われた。洞窟壁画が″手宮の古代文字″と似ているので話題になったが、線描写による抽象壁画は洞窟内外から次々に発見され、埋もれていた堆積層からは江別式を主体として当時の貝層などから多くの生活用具が発掘された。これらは調査団の報告書『フゴッペ洞窟』ニューサイエンス社−昭和45年−などで発表されているが、この洞窟画の類例はわが国では小樽などに限られ、シベリア、北方ユーラシアの岩壁画に似ているなど、江別文化の特異性が指摘された。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第1巻第2編目次 | 前へ | 次へ