通説編第1巻 第2編 先史時代


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第4章 原史の時代
第1節 続縄文文化と弥生文化

弥生文化と東日本

続縄文文化

続縄文文化   P271−P273

 北海道や東北地方の縄文式以後の土器形式について注目した山内清男は、昭和8年「日本遠古之文化」(『ドルメン』)で、室蘭市本輪西貝塚上層の土器と青森県田舎館遺跡との土器を挙げ、亀ヶ岡式土器の伝統をもった縄文の多い土器を、その「補遺」の中で″続縄文式″と名付けた。縄文式以後の縄文の多い土器形式について古いものと新しいものを区別し、「本輪西貝塚の土器は中央部日本の弥生式と並行し、新しい方の江別式は中央日本の弥生式に並行するか、古墳時代に並行するか興味深い」と述べている。このころの北海道考古学界の認識は、喜田貞吉の考え方が強く支配的で、縄文のある土器は縄文式で、その下限は奈良時代まで続くと考えられていて、続縄文の恵山式も亀ヶ岡式の地方形と考えられていた。東北地方北部における続縄文文化について江坂輝弥が積極的に研究を進めたが、その類例として北海道南部の土器が注目された。昭和25年に東北大学の駒井和愛らが茅部郡森町の尾白内貝塚を発掘し、昭和30年代に入って亀田郡尻岸内町恵山貝塚出土の資料が公開された。これが後述する函館の能登川隆コレクションで、尾白内貝塚、本輪西貝塚と同時期の資料であった。駒井和愛は尾白内貝塚をアイヌの貝塚と考え、その年代を平安時代まで下るとしたが、貝塚から出土した上層の須恵質の土器と、貝塚を構成する主体が続縄文の古い形式であり、年代について改められるようになった。恵山貝塚など亀ヶ岡式の終末形式の土器の系統を引く土器群には、大陸の青銅器時代、北朝鮮や弥生式に伴う磨製石器や魚形石器という特殊な石器が伴っている。また、鉄器の残片や金属器で加工した骨角製品が出土しているので、続縄文式は縄文の伝統を残しながら金属器文化の影響を受けた時代と言えるようになった。この時代は土器形式から次の3種に代表される文化に編年される。すなわち恵山式文化、江別式文化、後述する北大式文化である。それらは細分化される形式で、続縄文の前期を恵山式、中期を江別式、後期を北大式に時代区分すると、恵山式は弥生時代中期に、江別式は古墳時代中期に、北大式は古墳時代後期後半に比定される。江別式は青森県、岩手県、山形県北部、宮城県北部まで分布し、古墳時代の前方後円墳が仙台以南に造営され、仙台以北に及ばなかった時期である。北大式は土器の一部に縄文を残すこともあるが、その製作技術は古墳時代の土師器の影響を受けていて、定形化された石器は円形掻(そう)器で他は見られず、縄文文化の伝統的石器技術が消滅するが、古墳文化にはなり得なかった時期である。この形式の土器は青森県、岩手県、秋田県に分布し、東北地方では古墳時代後期の群集墳が出現して、その北限が7戸に及んだころである。これらの時代を続縄文時代と言い、弥生文化、古墳文化を受け入れなかった時代の文化を続縄文文化と言う。

続縄文土器の文様(恵山式)

続縄文土器の文様(江別式)
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